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2010年度 世界遺産アカデミー特別講座前ユネスコ事務局長顧問・服部英二氏『文明間の対話と世界遺産~人類の遺産に通底するもの~』(4)

イベントレポート イベントレポート
(2014-12-11更新)

連載第4回目(全4回)

エデンの園とタージ・マハル】
インド文化、イスラムの価値観、ヨーロッパの美意識、この一見つながりを持たない
三者に伝達=文明間の対話は存在するのでしょうか。連載第2回目から第3回目に
おいて、古代から続くインドの宇宙観=Vastu(ヴァストゥ)のお話をしました。
そして16世紀、インド文明はイスラムの価値観と出会います。ムガル帝国の成立です。
ムガル帝国の代表的な世界遺産に「タージ・マハル」があります。ムガル帝国第5代
皇帝、シャー・ジャハーンが愛する妃ムムターズ・マハルのために建設した霊廟が
「タージ・マハル」で、その壮麗な、総大理石造りの墓廟は、見るものを圧倒します。
しかし、「タージ・マハル」の庭園の美しさは、墓廟の壮大さを凌いでいます。

ペルシアの諺に「庭を造る人は光の友となる。闇から生まれる庭はない」というものが
あります。どんな国でも、庭にはそれを造った人の宇宙観が秘められています。そこから
派生して、ペルシア語のパイリダエーザ(Pairidaeza-囲まれた庭の意味)が
ギリシア語の「天国」=パラデイソスとなり、仏語のParadis、英語のParadiseの語源と
なっているのです。囲まれた庭–それは結界です。
※25 タージ・マハル
Paradise=エデンの園には壁があったのです。
我々日本人を含め、大自然に神を見る民族にとっては、中々、気付きにくいのですが、創世記では、神は自らの
言葉に背いたアダムとイヴをエデンの園から追放します。そして彼らが再び入れないように、その門を、焔の剣を持つ
天使ケルビムに守らせた、とあります。壁無くして門はあり得ません。
すなわちエデンの園は壁に囲まれた「結界」だったのです。

さらに、聖書からエデンの園の描写を見てみましょう。
そこには大切な2本の樹が植えられていました。「生命の樹」と「智恵の樹」です。人類の歴史とは、蛇にそそのか
されて「智恵の樹」の実を食べた人間が「生命の樹」を忘れていく歴史であったと言えます。もう一つ、この園からは、
4つの川が流れだしている、との描写があります。
その川の一つがユーフラテス川であることからも、エデンの園の位置は、メソポタミアに比定されます。メソポタミアは
ペルシアとなり、古代ペルシアとユダヤの出会いは、アケメネス朝ペルシア、キュロス2世が、バビロンに幽閉されて
いたユダヤ民族を解放したところにあります。前6世紀頃のことです。

26 アウグスチヌスの『神の国』の挿絵に 27 ボッカチオ『高貴なる方々』の挿絵に描かれた
描かれたエデンの園(十五世紀)羊皮紙             「アダムとイヴの追放(部分)」(十五世紀)羊皮紙

時は流れ、7世紀、ムハンマドが、イスラム教を確立します。イスラムとは神への絶対服従を意味しますが、
旧約の世界、つまりはユダヤ教の世界へ帰らんとする思想運動でもあるのです。イスラムの勢力は、瞬く間に中東、
そして北アフリカを席捲していきます。これらの地の気候風土は、閉ざされた中庭を生活の中心に据えるに
ふさわしく、多くの民族にとって、ナツメヤシは生命の樹でありました。特に砂漠の民にとっては、清らかな水が流れ、
ナツメヤシが繁るオアシスこそは天国でした。
4本の川によって四分割された庭は、アンダルシアで美しい水の庭を創り出します。
しかし、ムガル帝国により、イスラムの価値観がインドに渡った際、エデンの園の神話はインドの宇宙観
=Vastu(ヴァストゥ)と出会い、完全無比の「四分割庭園」、チャハル・バーグ(Ćhahar Bagh)を生み出しました。
4本の清流が流れる結界を持つ空間、イスラム庭園は、ここに、「エデンの園」を表す結界を誕生させたのです。

パキスタンの世界遺産「ラホール城とシャリマール庭園」。
このシャリマール庭園は、やはりシャー・ジャハーンによる造営です。この庭を見たときの鮮烈な印象は、今も
忘れられません。澄明な水を湛えて真直ぐに伸びる水路、涼しげな噴水の列、左右対称に配置された植物と水路。
そして、縦の水路を直角に横切る大きな水路がありました。それは段差を持った滝となっており、その先には、もう
一つの十字型の水の庭が広がっていたのです。その時、私の脳裏をよぎったのは、ヴェルサイユ宮殿の庭園でした。

天才造園家と讃えられたアンドレ・ル・ノートルの造営によるこの壮大な庭園は、その正面、地平に向かって
真直ぐ伸びるグラン・キャナル(大運河)を持ち、その中央を横切る水路により、それは十字を結んでいます。
このような基本形の一致は果たして偶然の一致なのでしょうか。
愛の霊廟「タージ・マハル」の建設は、1632年~1654年とされます。しかし、その庭園自体は、その前から
存在していました。シャー・ジャハーンは、愛する妃ムムターズ・マハルと共に散策した思い出の庭園に
タージ・マハルを建設していたのです。庭園は、二人の愛の園であり、エデンの園でもあったのです。その庭園も
水路で四分割された庭園でした。四分割庭園はチャハル・バーグ(Ćhahar Bagh)と呼ばれます。ペルシア語で
チャハル(Ćhahar)は4、バーグ(Bagh)は庭の意味です。語源は、やはりバビロンで使われていたペルシア語に
見られるのです。 

【文明間の対話 ユダヤ・キリスト・イスラム】

インド・イスラム文明の庭園と、フランス式庭園の類似性の謎解きを進める前に、
違う方向からイスラムとカトリックのつながりを見てみましょう。
8世紀、イスラムがジブラルタル海峡を越えると、文明間の対話がアンダルシア各所に
美しい華を咲かせます。コルドバ、セビリア、グラナダと時代は変わりこそすれ、そこには  28 コルドバのメスキータ内部
素晴らしい建造物が諸民族の共存共栄の成果として残っています。               「円柱の森」とベンガラ模様

8世紀に造られたコルドバの大メスキータ(モスク)にしても、”円柱の森”と称される円柱群は、
そこに残っていた古代ローマの柱です。ローマ人が好んだアーカンソスの柱頭を持つ円柱が
そのまま使われたのです。さらに、この円柱とアーチの回廊の造形は、噴水をもつ庭を取り囲み、
後にキリスト教の修道院の瞑想の回廊へと受け継がれていきます。

世界遺産にも登録されているシトー派のフォントネー修道院をはじめ
各地に残る素晴らしい修道院建築は、イスラムとカトリックの融合の
証です。無駄な装飾をすべて省いた簡素なたたずまい、偶像の不在、
29 ローマ帝国が 純粋な線、美しい調和、すべては労働と瞑想の日々のためのみに
残した柱 あります。さらに、コルドバのメスキータに見られるベンガラ模様は、
ヴェズレーの教会でも確認できるのです。

32 アルハンブラ宮殿の
別邸ヘネラリーフェ

30 フォントネーのシトー会修道院(1)                                          31 フォントネーのシトー会修道院(2)

アルハンブラ宮殿の獅子の庭、アルハンブラ別邸ヘネラリーフェに見る水の中庭、そこにはチャハル・バーグの
痕跡と変貌を見て取ることができます。ユダヤ、キリスト、イスラム、啓典の民の間での文明の移行は、あたかも
虹の七色のように、間断することなく、相互に呼吸しあい、しかも独自の光彩を放ちながら行われていたのです。
そのことを思えば、現在の宗教間の紛争のいかに愚かな事か、を実感します。特に18世紀以来世界の覇者と
なった西欧諸国は、イスラム文化からの貰い物を認めたがらない傾向にあります。

【ヴェルサイユ宮殿とインド・イスラム文化】
フランス式庭園は、17世紀、アンドレ・ル・ノートルによる創作とされます。ヴェルサイユ宮殿の庭園、そして、その
原型とも言えるヴォー・ル・ヴィコント城の庭園。いずれも、ル・ノートルが手掛けています。フランス式庭園は、
パースペクティブ(見通し)、そして左右対称の幾何学模様を特徴としています。
しかしこのフランス式庭園は、古くからこの地にあったものではありません。それは17世紀に突如生まれます。
ル・ノートルという天才的庭園設計士によるところが大きいことは当然です。しかし、ル・ノートルに、この意識の変革を
もたらした、何らかの伝達=異文化との出会いがあったはずです。
フランスの史家達は、イタリア・ルネサンスに、そのルーツを求めています。確かに、チャハル・バーグは、イタリアの
ルネサンス式庭園に現れます。

33 ヴォー・ル・ヴィコント城                            34 ヴォー・ル・ヴィコント城の庭園

メディチ家のヴィラ等に見られる幾何学模様には、イベリア半島から渡来するイスラム風、ないしモサラベ形式と
言われる庭の影響が歴然としています。フランス王、アンリ2世に嫁いだカトリーヌはメディチ家の息女でした。
しかし、そこには遥かに伸びる直線によるパースペクティブ(見通し)がありませんし、水と緑で描く巨大な十字形も
ありません。
16歳のル・ノートルが庭を学んだシモン・ヴーエはどうでしょう。ヴーエはヨーロッパのみか、トルコまで旅しています。
しかし、オスマン・トルコ帝国は壮麗なモスクは建築しても、大きな庭は造っていません。するとムガル文明こそ
フランス庭園に影響を与えたものではなかったのか。

私は、パキスタン、シャリマール庭園でインスピレーションを得た、インド・イスラム文化の
庭園とフランス式庭園を結ぶ具体的な情報のルート、ミッシングリングを探していました。
ところが2007年、私はユネスコのある会議の折、この東方からの情報の担い手という
ミッシングリングにふさわしい人物に出会うことになるのです。
ジャン・バチスト・タヴェルニエという商人です。それは、インドのユネスコクラブ連合会が
出版した”A Guide to UNESCO World Heritage Sites in India”という本による
もので、タージ・マハルの項には、こう記されていました。
「シャー・ジャハーンはヤムナ川の対岸に自らのために黒いもうひとつの廟を建てようとした。
このことはインドを度々訪れ、建設中のタージ・マハルを見たというフランスの旅行家 35 タージ・マハルの平面図
Jean-Baptiste Tavernierの証言による」

私はパリに帰り、早速本屋でこの旅行者の事を調べました。すると奇しくもその前年”Jean-Baptiste Tavernier,Les voyages en Orient du Baron d‘Aubonne 1605-1689(Ed.Favre)”という本が出版されていることが分かりました。
それは、1676年にかつてタヴェルニエ自身が出版した「トルコ、ペルシア、インドへの6回の旅」という旅行記の
主要部分を現代語にしたものでした。
それによれば、ジャン・バチスト・タヴェルニエは1605年、パリに在住するベルギー人の家に生まれ、その叔父は
ルイ13世のお抱え地図係であった。15歳からヨーロッパを廻り、25歳でオリエントと出会い、更に東に旅を延ばす
ため彼は宝石商人となる。これが彼をインドへ導く。6度に渡る大旅行には、そのころ海を独占しつつあったオランダ船
(V.O.C)を使っていて、一度はジャワまで行ったという。その彼が将来ルイ14世となる皇太子の誕生を知ったのは
1638年で、マルセイユから第2回目のインドへの旅に出港せんとした時であった。後にタヴェルニエは、この王に
かの有名な「青のダイヤモンド」を持ち帰っている。「青のダイヤモンド」とは、現在、スミソニアン博物館に”Hope”と
いう名で展示されている、それである。なお、その貢献により、彼はルイ14世から男爵の爵位を授かっている。また、
ムガル帝国において、彼は多くの友人を作るが、そのほとんどは王侯貴族で、その中に、かのシャー・ジャハーンの
愛妃ムムターズ・マハルの兄もいた。さらに、彼はタージ・マハルの着工と完成を見ている。
タージ・マハルに関するタヴェルニエの証言は、こうです。
「アグラのすべての霊廟の中でシャー・ジャハーン妃のものが最も立派で、そのドームは真に素晴らしい。それは
タジマカンというバザールの近くにあり、川のほとりに建てられた。そのために22年の歳月を要し、日々2万人が
動員された。私はその建設の始めとその完成を見た。シャー・ジャハーンは川の対岸に自分の廟を建てようと
していた。しかし、王子達との紛争となり、それは中断された」

【出会いと情報が育む文化と文明】
フランスの史家達は、トルコやムガルといった東方の大文明には、意図的と言っていいほど触れていません。
あたかもイスラムに何かを負うことは恥じているかのように。
しかし、当時は、東方が先進国でした。
そこからの情報は求められてしかるべきです。そして、情報こそが文化を変えるインパクトになり得るのです。
情報は、その時代ごとに富みあるところに集まり、そこから発信されます。17世紀ではイスタンブルの
オスマン・トルコ、ラホール、アグラのムガル王朝が世界の富を集めており、ヨーロッパではスペインから独立した
オランダが、その東インド会社V.O.Cの船を駆使してアジア諸国と交易を結び、そのもたらす富によって当時の
最先進国になっていくのです。交易の道が情報の道だったのです。

今回は、世界遺産の結びつきを、Diffusion(伝達)から検証しました。
文明は生き物のように移動し、他と出会い、生成していくのです。孤立した文明はやがて消滅していくことは、
歴史的に見ても明らかです。「パクス・ロマ-ナ」、「パクス・モンゴリカ」など、かつて世界帝国を築いた文明が終末を
迎えた要因として、もはや出会うべきものはない、との思い込みがあります。
文明の運命、は今日も変わりません。
文明間の出会いは、戦争や民族移動だけではありません。情報が出会いを提供します。情報は文明を変えたり、
新しい文化を創り出す、大きな契機となります。
是非、世界遺産の横のつながりを見つけてください。そこには「文明間の対話」の歴史があるばかりではなく、
日本文化の新しい側面の発見につながる大きなヒントが含まれているはずです。

最後に、ユネスコ 2001「文化の多様性に関する世界宣言」の第7条の言葉をご紹介して終了したいと思います。

「およそ創造とは自らの文化伝統に立脚し、
他の文化伝統と出会うところに開花するものである」

(※25~35 写真提供:服部英二氏)