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◇遺産復興応援ブログ:第10回 崩壊が続く「万里の長城」のもう一つの顔「野長城」とは(前編)

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(2022-04-25更新/ WHA 秘書

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 ご承知の通り「世界遺産保護条約」は、エジプトのヌビア遺跡群の水没危機によって世界中で遺産保護の枠組みが求められたことを受け、世界遺産を損傷や破壊から保護・保存するための国際的な協力体制を構築することを目的に、1972年にユネスコ総会にて採択された。2021年時点で194カ国が締結しており、文化遺産897件、自然遺産218件、複合遺産39件、計1,154件とともに、「危機にさらされている世界遺産」(危機遺産リスト)もあって、2021年時点で32カ国・52件(文化遺産36件、自然遺産16件)が指定されている。世界遺産委員会によって危機遺産と認定された場合は危機遺産リストに加えられ、その危機が去ったと判断されれば危機遺産リストから除外されるが、逆に危機にさらされた結果、世界遺産としての価値が失われたと判断された場合は世界遺産リスト自体から削除される運びとなっている。

 現在、中国ではその危機遺産リストに『万里の長城』がいずれ認定されるのではないかと危惧する声が上がっている。『万里の長城』は1987年に「八達嶺(はったつれい)長城」「山海関(さんかいかん)」「嘉峪関(かよくかん)」の3カ所を登録対象として、『敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)』や西安の『始皇帝陵と兵馬俑坑(へいばようこう)』などとともに、中国で初めて世界文化遺産に登録された。2007年には世界中からの投票により「新・世界七不思議」にも選ばれ、中国政府も国を挙げてその保護と保存に全力を注いでいるが、その一方で風雨による自然災害や人為的被害による崩壊の危機も叫ばれている。

 万里の長城は、春秋・戦国時代の群雄各国がそれぞれ北方民族の侵攻を防ぐため、国境沿に城壁を造ったのが始まりとされ、紀元前214年に秦の始皇帝が数十万の軍兵と数百万の農民を動員し、それらの城壁を修復、連結して構築されたと言われている。秦代以降、漢の武帝時代に匈奴(きょうど)の領域となっていた黄河上流の河套平原(かとう・へいげん)を占領した後、領土は更に西域へと拡大され、長城は「玉門関(ぎょくもんかん)」までに到達した。この時代の長城は匈奴からの侵攻を防ぐとともに、古代シルクロードの交易拠点を保護する役割をも果たしていた。その後の王朝によって修築と放置が繰り返されてきたが、現存する万里の長城は主に北方民族の侵攻を防ぐのが目的で、そのほとんどが明代に構築されたものとなっている。満州族の清代になってからは長城の防衛目的が無意味となり、修復は放置されたまま現在に至っている。

 明代の長城の総延長は、西の嘉峪関から東の山海関までの約6,352kmとされ、更には遼寧省(りょうねい・しょう)の北朝鮮国境まで延長された。2009年4月の国家文物局の発表では、東の遼寧省虎山(こざん)から西の嘉峪関までの明代の総延長は8,851kmとされていたが、2012年6月には新たに発見された分や秦・漢代の分をも含め、総延長は21,196kmと改めて発表された。

万里の長城の長さって本当に21196キロ?■【arachina】

  2011年の夏、筆者はシルクロードの交易通路『河西回廊(かさい・かいろう)』に点在する仏教遺跡を訪ねる考古学ツアーで敦煌の「莫高窟」を訪れた際、漢代の長城を求めて敦煌市から西北に広がるゴビ砂漠の真ん中、約100km先の「玉門関」、更に西へ約10kmの長城最西端の「漢長城(かん・ちょうじょう)遺跡」、「玉門関」から引き返し南へ約80kmの「陽関(ようかん)」、そして敦煌市から東南に約400km離れた明代の最西の要塞「嘉峪関」を訪れた。


2011年夏に訪れた最西端の「漢長城遺跡」

                     
                   「玉門関」                    「玉門関」入口

 西域への重要な関所である「玉門関」は、高さ約10m、南北長さ26.4m、東西幅24mのほぼ完全な状態で残された関所跡で、河西回廊の保護のために北側の疎勒河(そろくが)沿いに長城が築造されていたとのこと。「漢長城」は、延長約150kmと言われているが、城壁が芦の層と瓦礫(がれき)の層を積み重ねて突き固めた“版築(はんちく)造り”だったため、風化が進んで途切れ途切れに残骸が残されている状態で、一行以外に人影のない「漢長城遺跡」の石碑の先には崩れかけた烽火台跡が残っていた。

 シルクロードの西南南路の関所である「陽関」は、小高い砂丘に高さ4.7mの烽火台跡(ほうかだい・あと)が残っているだけだったが、付近の高台には展望台があり、南側一帯には荒涼としたゴビ砂漠、西のはるか彼方にはタクラマカン砂漠も眺望できた。高台の麓には「陽関博物館」があり、当時の城壁や武器類が展示してあった。

                     
                 「陽関」の烽火台跡               「陽関核物館」入口

 翌日、敦煌の東南約180kmにある「楡林窟(ゆりんくつ)」を経由し、交易の要所「瓜州(かしゅう)」から東へ高速道路で約235kmの「嘉峪関」へと向かった。嘉峪関は明代の西域の要塞として周囲733mを高さ11mの黄土を版築で突き固めた城壁で囲まれており、内郭、外郭、堀の各施設があって、東西には立派な楼閣(ろうかく)が聳え、関の南北で万里の長城と繋がっていた。最東端の山海関(さんかいかん)が「天下第一関」と称されるのに対し、嘉峪関は「天下第一雄関」と言われており、観光用に整備された周辺一帯は記念公園となっていて、関内は夏休み中の観光客で賑わっていた。

         
        「嘉峪関」入口              内郭の楼閣               西外郭の楼閣

 一方、北京近郊の明代の長城や関所は強固な石やレンガ等で構築され、敵の監視台や狼煙台(ろうえんだい)が一定の間隔で設置されて景観も良いことから、八達嶺長城を始め、慕田峪(ぼでんよく)、金山嶺(きんざんれい)、司馬台(しばだい)、居庸関(きょようかん)などには大勢の観光客が季節を問わず押しかけている。特に八達嶺長城は北京市内から約60kmと交通の便が良い位置にあり、世界中からの観光客も押し寄せている。
 筆者が1986年と1993年の冬に日中の青少年交流大会で北京を訪れた際には、現地へは車で3時間以上もかかり、厳寒の季節もあって観光客の姿も疎らであった。現在は長城に沿ってロープウェイや頂上から滑り落ちるスライダーもあり、中国の人々にとって一大観光スポットとなっており、国慶節(こっけいせつ)などの大型連休期間中には長城を埋め尽くすほどの観光客が押し寄せている。その一方で、落書きやゴミ捨ての被害も大きな社会問題となっている。

(文・写真:T.Koriyama)

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