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2013年度 世界遺産アカデミー特別講座(後編)前ユネスコ事務局長顧問・服部英二氏『ボロブドゥールの語るもの ~建築様式に見る天山思想とは?~』

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(2014-12-15更新)

『ボロブドゥールの語るもの ~建築様式に見る天山思想とは?~』(後編)

前ユネスコ事務局長顧問 服部 英二

前編はこちら

こちらの写真は、小ストゥーパの窓から中の仏像を写したものです。円壇では、それぞれの小ストゥーパに穿たれた小さな窓から、微かに中の仏様を拝めるような構造になっています。

方形壇の上層部には、仏龕(ぶつがん)に坐している仏像が並んでいます。このような形の仏像は、上座部仏教国であるセイロンやタイでは拝むことのできない形式で、大乗仏教特有の穏やかな笑みをこぼされています。

こちらは、2013年1月にバンコックのワット・プラケオで撮った写真です。ワット・プラケオは、上座部仏教国であるタイ王朝の、王宮に隣接した最も高い格式を誇るお寺です。そこに最近置かれた仏像なのですが、この形はタイの仏像形式ではありません。ボロブドゥールの仏像形式なのです。2体の仏像を見比べてみると、似ていると思いませんか? ワット・プラケオに元々あった仏像ではなく、あえて最近置いた仏像が、ボロブドゥール形式=大乗仏教の仏像なのです。推測してみると、タイ王室もワット・プラケオも、タイの学術界ですら、ボロブドゥールとタイの関係に注目をし始めている、と私は考えています。また、ワット・プラケオ内には、アンコール・ワットのジオラマも置かれています。私は、過去に何度もワット・プラケオを訪れていますが、ボロブドゥール形式の仏像も、アンコール・ワットの模型も、昔はありませんでした。この新たなる装いの変化は、タイ王室や仏教界、学者たちが、タイとアンコール、タイとボロブドゥールといった“文化の交流=上座部仏教と大乗仏教の交流”の歴史に再注目している証拠と言えるのではないでしょうか? さらに、タイ王室で遣われている言葉は、クメール語です。9~12世紀のインドシナ半島一帯では、クメール王朝がその絶大な影響力を誇っていました。13~14世紀には、北から南下してきたタイ王室の使用言語に、その歴史が垣間見えます。タイ王室の歴史認識が形となって現れたのが、ボロブドゥール形式の仏像であり、アンコール・ワットの模型なのです。

■隠された基壇

ボロブドゥールは、もともと小山があった場所に建てられました。重要なのは、ボロブドゥールに“隠された基壇”が存在していることです。ボロブドゥールを訪れると、最初に、一番下の方形壇(=基壇)に出会います。ところが、この一番下の方形壇は、設計当時からのものではなく、後から付け加えられた基壇です。ボロブドゥールを上から見ると、一番下の方形壇が張り出していて、他の方形壇より、幅が広いことが判ります。一番下の方形壇は、ひとつの角だけが抉れていて、中の隠された基壇が見えるように修復されています。この隠された基壇には、カーマ・ダーツ(=欲望界)が、基壇以外の方形壇にはルーパ・ダーツ(=色界)、円形壇にはアルーパ・ダーツ(=無色界)が描かれています。ちなみに、アルーパ・ダーツの“ア”は否定語で、ルーパ・ダーツに対して、無色界を意味しています。欲望界が描かれている浮彫の一部は、未完成でした。彫りかけた途中で、慌てて付け加えられたのが、一番下の張り出した方形壇です。ボロブドゥールが自らの重さで崩れかけてきたため、補強工事の際に付け加えられたのが、一番下の方形壇でした。自然に生み出された小山の上に、あえて盛り土をして、ボロブドゥールが建設されたという、基礎構造の証です。

■数の妙

次に、“数の妙”をご説明していきましょう。中台の大塔は空(くう)であり、そこに仏様は存在しません。空は光を意味し、ヴァイロチャーナ(Vairocana)の思想を表します。ヴァイロチャーナは、“マハ(大)”という言葉が頭に付くと、“マハ・ヴァイロチャーナ”、大日如来という意味になり、中央の空は大日如来を表しています。各壇の仏様の数に着目してみると、円壇が72、方形壇が432、総数で504となります。この数は、私が“向上門(こうじょうもん)”と呼ぶ、四方の階段で4等分されています。ボロブドゥールには、各数字の4分の1、つまり、円壇には18×4=72体、方形壇には108×4=432体、全体で126×4=504体の仏様がおわしますが、驚いたことに、その全てが9の倍数となっているのです。9は、仏教における至高の数です。あらゆる宗教に聖なる数があり、キリスト教は3、メソポタミアでは7、シャーマニズムでは8、そして、仏教では9です。また、9は3の二乗、という位置づけも可能です。3は統一の数字です。キリスト教の三位一体にも、3が現れます。日本人に馴染み深いところでは、武道や将棋、碁の世界における最高位が、九段です。“九段下”の地名の由来も、そこにあります。柔道の三船十段などの十段は、名誉称号であり、段位としては、九段が最高位です。ボロブドゥールの仏様の数に戻ると、各壇の仏像数、その十の位と一の位、それぞれの数の横の合計も、全て9で統一されています。ボロブドゥールは至高の数字によって構成されているのです。オランダ人技師ファン・エルプが、中台の大塔の中にご本尊の仏様がいると考え、修復作業の始めに大塔に穴を開けたことは、全くの無意味でした。大塔の中は、“エンプティー”だからです。このエンプティネスこそが重要で、「空」の中に一体でもあれば、全ての数字が崩れます。中央が0であることで、9の倍数の構造が完成するのです。

■空海との繋がり

フランス極東学院のデ・カストリスは、「十波羅密(じっぱらみつ)」の学説を唱えました。ところが、ボロブドゥールを説明するには、うまくいきません。十波羅密(=Paramita)とは、修業の過程の十の段階を表し、それぞれ、1つ目の段階が布施、2つ目が持戒(じかい)、続いて、忍辱(にんにく)、精進、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)、方便、願(がん)、力(りき)、智(ち)に分かれています。しかし、カーマ・ダーツ(=欲望界)は、ありません。さらに、ボロブドゥールの第9段に到達すると大塔に出会いますが、デ・カストリスは、この大塔を第10段だとして、十波羅密説を主張しています。私自身の実感としては、大塔を第10段とみなすことに抵抗があります。このような観点から、デ・カストリスの十波羅密説を、受け容れることは難しいのです。
他方、ボロブドゥールの構造を説明するのに最も相応しい学説が何かと言うと、ボロブドゥールから遥かに遠い異国で出会うことができます。空海の代表的著書、『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』です。空海は、9世紀の806年に長安の青龍寺から帰国した後、最澄(さいちょう)を弟子にし、真言密教を唱え、高野山に道場を開いた人物です。空海だけでなく、他の僧も帰国し、様々な教えや宗派が新しく日本に入ってきた時代でしたが、平城京を中心に、律宗(りっしゅう)や華厳宗(けごんしゅう)といった南都六宗(なんとろくしゅう)も栄えていました。これでは宗教が乱立してしまうとして、朝廷は、各宗門の長に、各宗派の教えを文書として提出させる勅令を発します。どの宗派も勅令に従い文書を提出しますが、最後に提出した空海の文書には、自分自身の真言密教だけでなく、全ての宗派の教えが網羅されていました。これが、『十住心論』です。空海は、天才的な発想で、ピラミッド型に各宗派のランキングを行っています。例えば、天台を第八心、華厳を第九心に置いています。華厳の教えは、ボロブドゥール自身にも刻まれています。真言を十住心の最高位である第十心に置き、9つの顕教と真言密教を唱えた上で、9つの住心の高位に密教が存在する、「九顕十密(きゅうけんじゅうみつ)」を説いています。そして、密教の本義を踏まえた教えとして、十住心に到達するには、「深秘釈(じんびしゃく)」の過程があるとしています。ボロブドゥールの方形壇の上部の仏様は仏龕に収まっていて、3段にわたる円形壇の仏様はストゥーパの中に座し、上段に行くほど徐々に、そのお姿は隠れていきます。中心の無窓の大塔は、空ですから、仏様は完全に隠れてしまいます。これこそ九層の顕、究極の密を形象化した建造物ではありませんか。この十住心論の教えと、ボロブドゥールの対比に気づいた時、私は衝撃を受けました。
長安とセイロンが結ばれていたのであれば、空海にボロブドゥールと同じ起源の教えが伝わったとしても、不思議ではありません。そこで、やはり重要となるのが、海の道です。紀元前3世紀のセイロン・アヌラダプーラに、アショカ王の息子、マヒンダ王子が仏教の伝道師として訪れています。マヒンダが仏教の教えを説いたミヒンターレの丘では、シンハラ王朝の王が仏教に帰依し、丘の下にマハ・ヴィハーラ(大寺)が築かれました。また、マヒンダの妹、サンガミトラは、菩提樹(ぼだいじゅ)の若芽をこの地に植えています。この菩提樹は、釈迦が悟りを開いたとされる、ブッダガヤの大菩提寺のもので、今でもアヌラダプーラで確認することができます。このような町、アヌラダプーラで、私が注目したのが、アバヤギリ僧院です。アバヤギリの“ア”は否定の接頭辞で、アバヤとは“恐れるな”を意味します。中国ではアバヤギリ僧院を「無畏山」と記します。5世紀、法顕(ほっけん)は、アバヤギリ僧院で長く学び、ジャワ経由で長安に戻っています。アバヤギリ僧院と、ガンジス川中流に所在するナーランダ僧院が結ばれていた可能性が示され、アバヤギリ僧院が大乗仏教、特に真言密の拠点であった可能性も大きいです。30年前に、ボロブドゥール近くのプランバナンのチャンディ・セウ(仏教寺院)から、“アバヤギリ”と刻まれた碑文が出土して、この説を裏づけています。

アヌラダプーラのアバヤギリ僧院のストゥーパ   フランス極東学院教授パルマンチェがボロブドゥールのイメージ図

12世紀頃、セイロンでは上座部仏教と大乗仏教の対立が激化する中、アバヤギリ僧院は、政府の勅令によって、廃寺となりました。こちらの写真は、私が撮影したアバヤギリ僧院のストゥーパと、フランス極東学院教授のパルマンチエがイメージした、ボロブドゥールの本来の姿です。この類似性は、どう思われますか。

■ストゥーパとは

後に、釈迦のお骨を収める舎利殿(しゃりでん)となるストゥーパは、もともとはインドのお墓で、その形は土饅頭(どまんじゅう)型です。ストゥーパ、Stuphaの“S”の摩擦音は、言語学的には常に消えていく音で、“Tupha”に変わります。Tuphaは、「たふ」と日本語表記されました。つまり、ストゥーパは日本において“塔”であり、五重の塔や三重の塔へと姿を変えたのです。一方、“S”の音を継承した言葉は、卒塔婆(そとば)となりました。

高野山の根本大塔

日本の塔は中国経由でネパールの建築様式を踏襲した木造建築なので、ストゥーパの土饅頭の形が現れません。ところが、こちらの写真をご覧ください。空海が開祖した高野山の根本大塔ですが、土饅頭の形を見ることができます。また、大塔から空に向かう九輪の、ストゥーパの姿も分かります。インドのストゥーパには三層の傘が不可欠で、高位の人が外出する際に三層の傘が差されていたことに由来します。同様に、舎利殿も三層の傘で守られています。これが、日本の五重の塔や三重の塔における九輪の原型です。形や名称も含めて、文化が継承されていくことが分かります。

アバヤギリで出土した仏像              ボロブドゥールの仏像

こちらの2体の仏像写真は、アバヤギリで出土した仏像と、ボロブドゥールの仏像ですが、たいへん似ています。

プランバナンのチャンディ・セウ(仏教寺院)

こちらは、“アバヤギリ”と刻まれた碑文が発見された、チャンディ・セウの写真ですが、今度はアンコール・ワットとの類似性が確認できます。

このように、形や建築様式の類似性を確認していただいた上で、あらためて、長安とセイロン、空海とボロブドゥールを結ぶ糸について考察していきたいと思います。もちろん空海はボロブドゥールに足を運んでいませんし、ボロブドゥールを擁するジャワ(インドネシア)の文化は、「インド・ジャワ芸術」という分野がある通り、インドとの繋がりのみで議論されてきました。ですが、地図で確認すれば判りますし、マヒンダがアヌラダプーラで伝道していた事実から、セイロンと南インドは隣接し、一体です。また、密教の中で「純密」と称され、体系的に完成された大乗仏教は、7世紀後半から中部インドに現れた、とされていますが、古くから「雑密」は存在し、ヒンドゥー教呪術の側面を強調した“タントリック(=Tantrick Buddism)”が、セイロンでもパーリ語によって行われていました。龍樹(りゅうじゅ)をはじめとする大乗仏教の始祖たちや、密教の始祖たちの殆どは、南インドの出身者か、南インドに赴いた経験を持っています。そして、使われたルートは、主に海路でした。
中国僧侶たちの動きも確認してみましょう。399年に、齢60歳にして、同行者4人を伴い、旅に出た法顕は、海の道で帰国しています。7世紀の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は陸路を選択しますが、義浄(ぎじょう)は南海の道を辿りました。

こちらは、法顕(赤/FA-HSEN)、玄奘三蔵(緑/HSUAN-TSANG)、義浄(紫/YI-TSING)の、3人が辿ったルートです。玄奘三蔵は、最初セイロンへ渡ろうと試みていますが、内戦のため、その道を諦め、北上して、ナーランダに向かいます。ところが、こちらの道も、断念せざるを得ず、諦めて帰国します。法顕は、ガンダーラの後にセイロンへと渡り、2年間滞在しました。主な経典を入手し、ジャワから扶南(ベトナム)を経由して、414年に青州に帰着しています。義浄は、ご覧の通り、海の道を使って往復しています。 ここで、先程のシルクロードの地図と比較してください。ほぼ一致しています。彼らは“海のシルクロード”を使っていたのです。求めるものが同じであった彼らは、同じようなルートを選択します。玄奘三蔵も、セイロンに渡りたかったことでしょう。中国僧侶たちが憧れたセイロン。その首都がアヌラダプーラであり、そこには「無畏山」として知られていた“アバヤギリ僧院”があったのです。そして、9世紀初め、遣唐使に加わった空海と最澄は、長安を目指したのです。

■さまよえる王国、スリヴィジャヤ

長安とセイロンを結ぶ海のルートの中継点が、スマトラ・ジャワ・マレー半島に存在した、スリヴィジャヤ王国です。この南海の王国は、法顕が活躍した時代には既に存在し、唐代には「室利仏逝」と音訳され、宋代には「三仏斉国」と呼ばれながら、14世紀まで存在しました。義浄がスリヴィジャヤに滞在した記録も残っています。スリヴィジャヤ王国は、フランスの学者たちとの議論も踏まえると、“港湾都市の連合体”であり、アメーバのように形態を変える“さまよえる王国”であった、と考えられます。首都はパレンバンとされていますが、地形環境の変化や船の大型化などの要因も含めると、実態は、絶えず首都も移動していたはずです。この地に、15世紀に興ったイスラム国家マラカ王国についても、建国したパラメスワラ王子はパレンバンから来ており、さまよえる王国、スリヴィジャヤの変化のひとつとして、捉えるべきです。また、ジャワのシャイレンドラ王朝そのものも、スリヴィジャヤ連合都市群の中のひとつとして、見ることができます。通説では、メラピ火山の噴火により首都を失い、東ジャワに移動したと言われていますが、この説に疑問を持っています。実際、東ジャワのスラバヤまで行って調べましたが、仏教徒シャイレンドラを思わせる痕跡は、何もありませんでした。ですから、これは単なる通説であって定説ではないと考えています。天災に襲われた時、人々が避難する場所は、頼れる同胞が住む場所ではないでしょうか。シャイレンドラ王朝を含むスリヴィジャヤ王国の影響力を考えれば、この時代のスマトラ・ジャワ・マレー半島は一体的でした。8世紀にジャワ・シャイレンドラ王朝の支配下にあった、クメール(カンボジア)も同様です。クメールの王子、ジャヤバルマン2世は、シャイレンドラ王朝に人質として捉えられていたのです。802年に虜因から逃れ、クレン山で独立宣言をして開いた王朝がクメール王朝です。シャイレンドラの人々は、メラピ火山の噴火時に、かつての逃亡の道を辿って、クメール王国に行き着いたのが至当だと、私は思います。

■天山の思想

クメール王朝の基本的アイデンティティーに、“Deva Raja(デヴァ・ラジャ)=神王観”という王即神(そうそくしん)の考え方があります。エジプトのファラオ思想を思い出す方もいらっしゃるかもしれませんが、私は即身成仏(そくしんじょうぶつ)の教えに近いと考えています。チベット仏教(ラマ教)では、ダライラマは観世音(かんぜおん)の生まれ変わりであるとされています。本拠地のポタラ宮殿は、Potalaka=ポタラカ、補陀落であり、観世音が住む山を意味しています。即身成仏が真言の教えにも通じていることから、クメール王朝のアイデンティティーやデヴァ・ラジャ思想も、密教の流れと言えます。観世音が住む山が補陀落であるのに対して、仏教思想におけるこの世の中心は、須弥山(しゅみせん)です。インドではメール山と呼ばれていました。アンコール・ワットにある5つの塔は、このメール山を表現しています。高みに聖なるものを見る天山思想はインド独特の宇宙観ですが、イランでもハラー山に、ヒマラヤにおいてはシヴァ神が住むカイラス山に、見ることができます。天山思想では、聖なるものが住まう山はすべて海に囲まれています。

メール山は中国では「須弥山」となります。

こちらの図をご覧ください。中国の須弥山を表した図ですが、中心はボロブドゥールのような九段の階段状になっていて、周辺は海に囲まれています。

森本公誠氏による、古代イランのハラー山の世界観

一方、こちらは、森本公誠(もりもと・こうせい)氏が紹介した古代イランにおけるハラー山の世界観です。イランは高原地帯で、ヒマラヤの如く高山がありません。それでも、このような高みに聖なるものを見る、天山思想がありました。ハラー山の周りに人の住む洲があり、真ん中に川が流れています。そして、山は海に囲まれています。

8世紀、中央ジャワに出現した大乗寺院ボロブドゥール

ボロブドゥールも確認してみましょう。実は、写真を撮り損なってしまったのですが、4方向に降りる階段の1カ所に、船着き場を作った形跡を発見しました。周りに湖を造り、水に浮かぶボロブドゥールを思い描いた証です。ボロブドゥールの完成形は、海に取り囲まれた天山思想を表現したものであった可能性も出てくるわけです。

■ヴァストゥ、宇宙観に基づく建築法

天山思想に思いを巡らす時は、古代インドから現代まで続くインドの宇宙観を理解しなければいけません。その基本を成すものは、“ヴァストゥ(Vastu)”です。ヴァストゥは四方位と、ハラー山や須弥山のような高みを持つ中央位から成り、建造物を建築する際に守らなければならない、ある種の規制とも言えます。四方位と高みを持つ中央の構造は、ピラミッドの形成です。ボロブドゥールもピラミッドを形成し、ジャワでも“モンチョパット(Mancapat)”と呼んでいます。また、四方位については、ソクラテス以前の古代ギリシャでエンペドクレスが唱えた『四元素(地水火風)』にも通じ、ここに中央位の高みを加えると、五方位、すなわち、ヴァストゥとなります。ヴァストゥでは、日が昇る東が入口です。ボロブドゥールも四方向の向上段は東西南北を向いていますが、正面入り口は東側にあります。皆さんも、ボロブドゥールに行かれた際は、ぜひ、東側からお上りください。

古代インド、ヴァストゥの方位と色               エンペドクレスの四元素

こちらの図は、ヴァストゥの概念を各方向と色で表したものです。東西南北と地水火風、地水火風に合った色彩が四隅に表現されていますが、中央位は色がありません。「Space」と記載されていて、これは「空」のことです。ボロブドゥールの無窓の大塔と同じです。エンペドクレスの四元素の図も面白いものです。火と空の間に「Hot」、地と水の間に「Cold」とありますが、中央位には何も存在せず、「空」であることが判ります。

このようなことを念頭に、アンコール遺跡を見てみましょう。こちらは、バコン寺院(Bakong)です。バコン寺院は、完全なボロブドゥール型で、四方位と中央に高みを持ちます。入口も東側にあります。60を超えるアンコール遺跡群のうち、西側に入口があるものは、例外的にアンコール・ワットだけです。つまり、アンコール・ワットは、寺院と言うよりも、スーリヤバルマンの霊廟として建てられたものとして考えられ、西側の入口は、浄土の方位を示すのです。また、アンコール・トムのバイヨン寺院(Bayon)には、四方位と中央の高みがあり、入口は東側にあります。

こちらの図は、フランス極東学院が描いた、バイヨン寺院の復元図です。アンコール・ワットと同様に、中央が須弥山を表しています。

バイヨン正面図(フランス極東学院)

こちらの写真は、私が撮影したバイヨン寺院ですが、かなり崩れてきています。

バイヨン寺院

四面仏 様々な海を表現したレリーフ

■チャハル・バーグとヴァストゥ

続いて、ムガール帝国についても考察していきましょう。インド最古の霊廟であるフマユーン廟のチャハル・バーグ(四分割庭園)や、タージ・マハルのシャリマールの庭に、ヴァストゥの影響を見ることができます。ところが、ムガール帝国では中央位に高みがなく、代わりに噴水が置かれています。噴水を通して、風土や国民性による変化、文明と文明の出会いを感じることができます。16世紀初頭にインドに興ったペルシア由来のイスラム文明が、ムガール帝国です。イスラムは砂漠の宗教ですから、水は非常に貴重です。2010年の第1回講演会でお話した、イスラムの持つ“エデンの園”への想い、4本の川が流れ出る楽園自体への憧れの思想が、ヴァストゥと結びつき、中央位に噴水を擁するチャハル・バーグを完成させました。ただし、フマユーン廟は、完全なヴァストゥが見られますから、この時代はまだ、エデンの園から生まれる思想とは結びついていません。

インド・デリーのフマユーン廟

こちらは、私が撮影したタージ・マハルの写真です。タージ・マハルには中央位に噴水が設けられています。

インドの世界遺産『タージ・マハル』                  『タージ・マハル』の平面図

図で判るように、タージ・マハルの庭園は、四分割の中にさらなる四分割を持つ、完全なチャハル・バーグ(四分割庭園)を構成しています。

アクバール大帝の廟にもボロブドゥールの通じる形式が確認できます。しかしながら、中央位に高みはありますが、ストゥーパではなく、ドームを形成しています。イスラムの廟にストゥーパはあり得ませんから。

ムガール王朝・アクバール大帝の廟

ムガール帝国からアンコールに戻りましょう。西側に貯水池と入口を持つ遺跡がアンコール・ワットです。

アンコール・トムもヴァストゥの影響で、四方位と中央の高みを持ちます。この中央に位置するのがバイヨン寺院です。

アンコール・トム平面図(フランス極東学院)

こちらは、フランスのヴォール・ヴィコント城の庭園です。

ヴォール・ヴィコント城の庭園(17世紀)

メソポタミア起源のチャハル・バーグに結ばれて、ヴァストゥの考え方は、フランスにも伝わっていると考えられます。パリのサンベルナルダン僧院やサンジェルマン修道院の原図でも、四分割庭園が確認できます。これら2つの原図でも、必ず中央位があり、そこには噴水が置かれています。

パリ・サンベルナルダン僧院の原図(12世紀)                サンジェルマン修道院の原図

太平洋を超えて、こちらは、メキシコのマヤ都市遺跡、チチェンイツァーにある「エル・カスティーリョ」という神殿ピラミッドです。エル・カスティーリョにも四方位と上に登る階段があって、完全にボロブドゥールと同じ形式です。頂上の高みは、至高神ククルカンの聖なる場所です。

メキシコ、チチェンイツァー ククルカンの神殿エル・カスティーリョ

こちらは、同じくメキシコにある「エル・タヒン」のピラミッドです。ここにも四方位を感じる階段がありますが、このピラミッドは窓があります。“壁龕(へきがん)のピラミッド”とも呼ばれていますが、この中に仏様がいらっしゃればボロブドゥールと全く変わりありません。

エル・タヒンのピラミッド

最後に、エジプトのカフラー王のピラミッドをご紹介します。美しい四角錐として有名ですが、最近では大ピラミッドの四角錐の各面から中央にかけて縦の道のような形跡が確認できたそうです。エジプトのピラミッドが四角錐ではなく八角錐だったとすれば、これも遠くボロブドゥールと繋がっていた可能性が窺えます。

エジプト、カフラー王のピラミッド

――世界は結ばれている。

これを今回の結論としたいと思います。ありがとうございました。