■ 研究員ブログ40 ■ 愛は見えるか!?
今日から8月です。
蒸し暑いだの肌寒いだの言っているうちに、
前回の研究員ブログを書いてから、
すでに2ヶ月近くが経ってしまいました。
歳をとるごとに一年を早く感じるのはなぜなのでしょうね。
先日、鎌倉まで近藤誠一 前文化庁長官の講演会を聴きに行ってきました。
「三保の松原」を逆転登録(?)に導いた近藤前長官が、
鎌倉の今後についてお話されるということで、
夕焼けの美しい鎌倉まで行ってきたわけです。
そこで近藤前長官が強調していたのが、
目に見えない精神的なつながりを、
どのように評価する(評価してもらう)のか、というコトです。
例えば鎌倉は、
日本の社会システムが武家を中心とするものに変化した場所である、
という点はICOMOSの評価書でも評価されていましたが、
それが、物質的・科学的に証明できない、という勧告でした。
日本としては、その地域のもつ歴史性や物語、精神性を
評価してもらいたい、との思いがありましたが、
科学的な裏づけのないものは評価できない、という
ICOMOSの考え方を覆すことは出来ませんでした。
これは世界遺産の考え方の根幹に関わる難しい問題です。
例えば、歴史地区を構成する街並や教会、道などは、
人間が作り上げた「モノ」です。
世界遺産は、そうした「モノ」を守り次世代に伝える営みです。
しかし本当に大切なのは、「モノ」なのでしょうか。
近藤前長官の言葉を借りれば、大切なのは「モノ」ではなく、
それをつくり上げた人々の思いや思想といった精神性です。
「モノ」そのものを切り取ったとしても、
それ自体には意味がありません。
サン・テグジュペリも書いていますが、
本当に大切なものは目に見えないのです。
一方で、そうした「精神性」はどこまで一般化して共有し、
「科学的」に証明できるのか、という反論が出てきます。
科学的な証明は出来ないでしょう、と。
ICOMOS は、この反論の立場です。
専門機関としては当然の立場でしょう。
しかし、「科学的」に証明しうるのは、
そこにその遺産を作った人がいた、文化があった、という
存在の証明までに過ぎません。
そこより踏み込んだ、本当の意味での遺産の価値というのは、
実は世界遺産の営みでは評価が出来ていないのです。
これは世界遺産条約にとっての大きく重い課題です。
世界遺産は、これまでの物質中心の保護・保存の考え方から、
精神的な面も含んだ保護・保存の考え方に変わってゆくべきである、
という近藤前長官の考え方には強く賛同します。
しかし一方で、それは本当に可能なのか? とは思います。
世界遺産条約を運用する上では、
誰もが納得する、客観的な価値評価が絶対に必要だからです。
近藤前長官は、鎌倉は欧州文化首都のような、
文化都市としての方向性を目指す方がよいのではないか、
とも話していらっしゃいました。
立場上、「世界遺産ではなく」という前置きはありませんでしたが。
鎌倉から帰る電車の中、
目に見えないものを証明するってどういうコトなんだろうと考えていました。
例えば、宝石店のショーウィンドウの前で、
彼女から「私への愛を証明してよ!」なんて言われたらゲンナリします。
「私への愛って、たった給料3か月分なの!?」なんて言われた日には、
証明すべき愛はどこかへいってしまいそうです。
目に見えないものを証明するって難しいですね……ちょっと違うか。
まぁ、「愛」なんて何度も書いてると気恥ずかしいのですが。