◇遺産復興応援ブログ:第7回 中国における新たな遺跡発掘は考古学と盗掘の戦いの場2(全3回)
別途、2010年の夏、中原地区への考古学ツアーの一環として、河南省安陽市郊外にある「曹操高陵」を訪れた際、現地の武装警官が警戒中で立ち入りが厳禁されていた。2009年12月に「曹操の墓発見」のビッグ・ニュースが流れて以降、中国では真贋論争が起こり、当時は話題沸騰中で大勢の中国人達が周辺に押しかけていたが、事前申請していた一行には墓内の撮影禁止を条件に、外国人として初の特別参観が許可された。
2010年8月に訪れた際の急造看板と屋根囲いだけの曹操高陵遺跡(By T.Koriyama)
2019年3月に東京国立博物館で開催された特別展『三国志』では、数少ない文物とともに「曹操高陵」の墓室内も再現されていたが、現地のひんやりとした墓内は他の王朝墓と比べて意外と狭く、石室もなく殺風景で、石壁の天井に盗掘跡とみられる小さな穴が開いていたのが印象的だった。2007年12月に盗掘に遭い、2008年秋に盗掘団が摘発されて真贋論争の証拠とされる「画像石」等の遺物が押収されたとのこと。この時の体験から筆者は盗掘問題に興味を覚え、以降、考古学ツアーで各地の遺跡を見学する度に、盗掘が現在も遺跡発見に深く関わっていることを知らされた。
中国では悠久の歴史とともに紀元前から盗掘の歴史としても知られており、歴代王朝の交代期や歴史上の戦乱、干ばつ、洪水、飢饉の度に貴重な墳墓荒らしが繰り返されてきた。生活に苦しんだ人々が破壊された遺跡等の煉瓦や備品を持ち帰って生活用具として利用したり、農作業中に偶然に掘り当てた陶器や青銅器等の文物が富裕者に高額で売却されたりして、生活の糧にするケースが頻繁に行われていた模様。特に重要な遺跡発見の噂に人々は競ってその周辺を掘り漁り、盗掘を一種の職業にする集団もいたとのこと。
人々の生活に深い関係のある盗掘の歴史が、現在の輝かしい「中国考古学誕生100周年」を迎えた陰で、今日も営々と続いており、新しい遺跡発見の度に考古学と盗掘の時間の戦いが繰り広げられている状況を、読者各位はどの程度ご存じだろうか。
1980年代以降の中国では、各地の道路や鉄道等の工事現場で様々な遺跡が発見され、考古学界の活動も多忙を極めて現在に至っている。特に歴史を塗り替えるような貴重な遺跡発見の噂が流れれば、素早く考古学者達が現地調査を実施するとともに、現地の公安警察が現場を封鎖し、深夜に及ぶ盗掘の警戒に当たる。現地の文物管理局や考古学者達は国家文物局の許可を得て、初めて本格的な発掘作業を開始するという流れになっている模様。現に考古学ツアーで2014年に訪れた陝西省の「周原遺跡」や2018年に訪れた山東省の「滕州大韩墓地」等、発掘作業が進行中の遺跡現場には公安警察の寝泊りができるバスが常駐しており、昼夜を問わず盗掘防止の管理が行われていた。
左:「周原遺跡」での馬車坑の発掘現場後方に駐留するバス (By T.Koriyama)
右:周囲がトウモロコシ畑の「滕州大韩墓地」に駐留するバス(By T.Koriyama)
盗掘問題に興味を覚えた筆者は、現地の考古学者達に盗掘の実態を尋ねたところ、意外な答えが戻ってきた。盗掘と考古学は今でも深い関係にあり、最初に盗掘情報が伝わると、現地の公安警察は素早く墓泥棒や盗掘団の摘発に動き出すと同時に、考古学者達が現地に駆け付けて被害の実態調査を開始するとのこと。言いかえれば、盗掘は考古学にとって遺跡発見の「先兵役」になっていると言うのだ。盗掘情報無しに考古学者が各種史料や最先端技術を駆使しても地中の埋蔵遺跡を発見するのは至難の業であり、本来の本格的な学術調査とは別に、初期段階で盗掘された文物類が骨董品の地下マーケットや海外のオークションに流れるのを防ぐことも現代考古学の重要な役割の一つになっているとのことだった。(続く)
(T.Koriyama)