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●マイスターのささやきNO.5 森羅万象・世界遺産 ドゥブロヴニクの旧市街

森羅万象・世界遺産 中欧の旅 スロベニアとクロアチア  

 マイスターの三芳けんじと申します。5月にスロベニアとクロアチアを旅しましたので、

第三回は、クロアチアのドゥブロヴニクの旧市街を御紹介させていただきます。  

 

●(3)ドゥブロヴニクの旧市街● 

  プリトヴィツェからドゥブロヴニクまで約420km、この間、高速道路は途中までで、その後はアドリア海沿岸をひたすら南下する。途中、ネウムで一旦ボスニア・ヘルツゴビナに入国、10km足らずで再びクロアチアに入国すると、目指すドゥブロヴニクである。長いバス移動であったが、この旅行で初めて夕方、明るいうちに到着した。

 クロアチアが誇る世界遺産・ドゥブロヴニクの旧市街は、アドリア海の真珠とも称され、青い海に突き出し、オレンジ色の屋根と白壁の家が太陽に映える、美しい中世の城塞都市である。過去にベネチアやオスマントルコなど、多くの宗主国を変えてきたが、ダルマチア地方の最南端にあるこの町には、クロアチア独自の文化と美術も開花し、発展してきた。旧市街は、町の美しさだけでなく、15-16世紀には地中海交易で栄え、機能的な港湾都市としての歴史もあり、魅力に溢れた街である。此の日は、これまでの雨模様と違って、幸運にも朝から晴れていた。青い海や赤と白に統一されたドゥブロヴニクの町並みには、輝く太陽が必要で、それこそ曇りや雨は似合わない。旧市街への入口はピレ門で、守護聖人である聖ブラホの像が街を守る。入るとすぐにオノフリオ大噴水がある。これは先のクロアチア紛争で破壊されたが、戦後、世界遺産基金によって修復されている。この先、石畳のメインストリートを300m程進むと、ルジャ広場があり、この町の自由の象徴であるオルランド騎士像が立っていた。この広場は旧市街の中心で、聖ブラホ大聖堂や旧総督邸、当初税関として使われ、今は古文書館となっているスポンザ宮殿など、15世紀の建物が並んでいる。聖ブラホに捧げられた聖堂はバロック様式で、祭壇横の宝物室には、聖遺物として聖ブラホの下腿骨が入った装飾された箱があった。旧総督邸は豪華で、エントランスは広く、馬蹄形のアーチで連なる円柱、大きな螺旋階段など、富と権力と結びついた当時のキリスト教を象徴している。今は博物館になっていて、多くの絵や彫刻が展示されていた。この旧市街内には幾つかの修道院もあるが、フランチェスコ修道院の中庭の回廊には、世界で3番目に古い薬局があり、今でも営業していた。

このような薬局のほか、噴水や検疫所などは、多くの船が出入りした、嘗ての港湾都市としての繁栄を示している。さて、ドゥブロヴニクの最大の魅力はなんと言ってもその町並みの美しさである。街は、海に突き出し、4つの要塞を繋ぐ、高さ25m、幅6mの堅固な城壁に囲まれている。城壁の上は散策路になっていて、旧市街を一周出来る。城壁に上がると急に視界が開け、建物を同じ目線で見ると、街全体が見通せ、その素晴らしさに再び感動する。城壁の上を歩いていると、この街が絵に書かれただけの中世の街ではないことが判る。今でも多くの人々が生活していて、オレンジ屋根の白壁の家には、洗濯物が干されていたり、散策路には小さな土産物店などがあり、街はダイナミックに動いている。然し、少し目を細めてみると、アドリア海と陽光を浴びた赤と白の町並みだけが浮かび上がる。          

               

 此の景観は、背後にある500mほどの山の上から見ると、誰が撮っても素晴らしい芸術写真となり、拡大しても、縮小しても、そのズーム・アングルに優劣はない。この山頂からのパノラマを見るには歩いて登るか、タクシーで行くかである。私たちは交渉してタクシーで行ったが、35ユーロは少し高かったようだ。然しその分、充分な説明を受け、普段は行けない所まで案内された。山頂には大きなアンテナのあるロープウェー駅が残っていたが、近づいてみると、先のクロアチア紛争で大きく破壊され、残った壁には多数の銃痕があった。その地下は小さな記念館になっていて、当時の悲惨な写真が展示されていた。この惨劇を経験したタクシー運転手の説明は、真剣で,詳しく、戦争の悲惨さ、生まれ育った町を破壊された悔しさ、家族、同胞の無念さなどを訴えており、私たちも充分その心情を感じとれた。建物の外は立ち入り禁止の所があって、低い柵で囲まれていた。此処にはまだ多数の不発弾が埋まっているという。運転手の説明が更に身近なこととして実感した。その後改めて眼下の大パノラマを見渡したが、戦争の傷跡は微塵も感じられない。戦後の市民の復興への努力は並大抵のものではなく、瓦礫の一つ一つを拾い集め、出来るだけ忠実に元の姿に再現したと聞いている。いかなる理由があっても再び破壊してはならない。1954年のハーグ条約、1972年の世界遺産条約を経て世界の文化財は守られているはずである。此の度の第2次世界大戦でも、ポーランドの都市クラクフは、その町の歴史的貴重さと美しさ故、連合軍は爆撃を思い留まったという。日本の京都・奈良もそうであったと聞いている。これによってクラクフ大聖堂、ジグムント礼拝堂、法隆寺、金閣寺などが人類共通の財産として残り、現代、未来へとつながっている。UNESCOは「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」と提起した。ユネスコ事務局長官房参事・服部英二氏は、世界遺産は地域、民族、宗教、思想を超えて文化、自然を美しいと思う美意識を人類に認識させることにより、ユネスコ本来の使命である平和構築を示すものであると述べている。然し、此のドゥブロヴニクは壊滅的に破壊された。これを繰り返さないためには、それぞれの国、それぞれの個人が世界遺産運動を理解して、ユネスコの理念に立ち返らなければならない。

 私達は、ボートに乗って、アドリア海からもドゥロヴニクの街を見たが、このアングルも素晴らしい。円形の要塞、それを繋ぐ堅固な城壁に威圧されたかと思うと、波止場は観光客であふれ、入り江には、豪華船やおびただしい数のヨットなど、戦争の傷跡は全く感じられない。今のドゥロヴニクは平和を謳歌しているようにみえる。歴史と世界遺産、戦争と平和を思い、再度訪れて見たいものである。