whablog
NPO法人 世界遺産アカデミーTOP  >  オフィシャルブログ  >  ■ 研究員ブログ⑦ ■ 世界遺産に行こう!

■ 研究員ブログ⑦ ■ 世界遺産に行こう!

先日、出石まで皿蕎麦を食べに行ったのですが、
ちょうど秋祭りの時季だったようで、
京都から車で向かう途中で目にした多くの神社で、秋祭りが行われていました。
集落を通過するたびに、民家の屋根の奥に白く大きな幟が見え、
神社って本当に集落ごとにあるんだなぁ、と驚かされます。

フランスに留学していた頃も、よくドライヴをしていたのですが、
その時も村や街ごとに教会や聖堂があるのを目にしました。
丘陵地を抜けてゆくとまず教会の高い屋根や尖塔が見え、
やがてその周りに造られた街が見えてきます。

車窓からは、同じように見える神社と教会や聖堂ですが、
実際に車を降りて訪れてみると、
その違いがはっきりとしています。

人々の生活と宗教が密接に結びついてきた、という点で
神道もキリスト教も同じですが、
自然信仰から発展した多神教的な神道と
イエスの教えを基とする一神教的なキリスト教では
神域(聖域)のあり方に違いがあるのです。

神道は、山岳や森林、滝、河川など自然への信仰を起源としているため、
実際に神社を訪れると、本殿などが「鎮守の森」と呼ばれる
自然に囲まれていることが判ります。
多くの場合は、信仰対象の自然がまず存在し、その中に社が築かれてきました。
そのため神域には、本殿や境内のみならず、
周辺の自然環境までが含まれます。

世界遺産登録においても、その信仰形態が重視され、
『古都京都の文化財』の、賀茂別雷神社の神山(こうやま)や
賀茂御祖神社の糺の森(ただすのもり)、
『日光の社寺』の、二荒山神社の二荒山(男体山)、
『厳島神社』の弥山(みせん)、
『古都奈良の文化財』の、春日大社の春日山(かすがやま)など、
周囲の自然全体、もしくはその一部が、
「文化遺産の一部」として登録されています。

また、世界遺産の登録範囲に含まれない場合でも、
『古都京都の文化財』の、宇治上神社の周囲の森林のように、
緩衝地帯(バッファーゾーン)として、保護の対象となっています。

一方で、キリスト教は、
ギリシャ的な多神教世界と一線を画しているため、
ギリシャ時代の神殿の周辺にはあった自然の神域(聖域)を
キリスト教の教会や聖堂は持っていません。

世界遺産登録を見ても、
キリスト教の教会や聖堂のみで世界遺産登録されている場合、
日本の遺産のように周囲の自然環境まで世界遺産登録されているのは、
『モン・サン・ミシェルとその湾』のように付加価値として含むもの、
『ピエモンテとロンバルディアのサクロ・モンテ群』や
『聖山アトス』、『メテオラの修道院群』のように
修道士たちが住み込むことによって聖域とみなされるようになったもの、
あとは、人が手を加えた庭園などに限られています。

本殿よりむしろ自然環境全体で宗教的世界観を示す神道と、
教会・聖堂建築自体や、ステンドグラスから差し込む光りなどが
宗教的世界観を創りあげるキリスト教。
特定の宗教を持たない、いわゆる典型的な日本人の僕には、
そのどちらも素晴らしく感じます。
浪人時代にはよく賀茂別雷神社の楢の小川の脇で本を読んでいましたし、
フランス留学中は教会や聖堂の椅子に座って
何をするでもなくボーっと汽笛をならしたりしていました。

世界遺産を学んでいると、宗教は避けて通ることが出来ません。
宗教そのものは世界遺産ではありませんが、
登録物件の中では宗教関連遺産が最も多く、
それらは各宗教の世界観と密接に結びついているからです。

……とは言っても、「宗教」というのは、
「キリスト教」や「イスラーム」などという名前ほどは、
はっきりとした区別はありませんし、それは世界遺産についても然りです。
ひとつの遺産の中にいくつもの宗教的要素が混在していたり、
時代によって同じ遺産が使い分けられている例も少なくありません。

宗教の問題はとてもセンシティヴで、ともすれば不寛容になりがちですが、
世界遺産というのはその宗教的相違を越境するよい手段になる、
と思っています。

「他の宗教との間に違和感を感じたら、世界遺産に行こう!」
というのはどうでしょう。

自分の価値観とは違っても素晴らしいものがある、
というコトを知るのは、とてもよろしいと思うのですが。

賀茂別雷神社の立砂(盛砂)は、神山を表している、とも言われています。

寺院裏の広場から見下ろした下の村

ヴェズレーの教会裏から見下ろすと、教会の周りに街がつくられているのがわかります。