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■ 研究員ブログ⑲ ■ ロマネスク建築 あるいは アッシジのフランチェスコ

皇居のお堀脇の桜が美しく咲いています。

皇居の石垣と瓦屋根の平川門、水面に映る桜をぼんやりと眺めていると、
日本の眺めって美しいなぁ……と、しみじみ思います。
そして、こんな時でもちゃんと春が来るのだなと、
少し救われる気さえします。

先週末(4月9日)から、世界遺産検定対策の1-Day ガイダンスが始まりました。
1級対策ガイダンスの中で、ロマネスク建築に触れていますが、
今回はガイダンスでは触れきれないコトを少し。

ロマネスク建築が多く作られた10世紀頃は、
キリスト降誕からちょうど1000年の節目にあたり、
キリスト教信者の中に黙示録に描かれた終末思想が広がります。

一方で、修道会の主導するカトリック教会・修道院の刷新運動も起こり、
ロマネスク建築は、信者をまとめカトリック教会からのメッセージを伝える
重要な役割を果たしていました。

ロマネスク建築のタンパンや柱頭に描かれたレリーフが、
その役割を象徴しています。

当時、カトリック教会や修道院の言語は「ラテン語」でしたが、
一般の民衆の中でラテン語を理解する者はほとんどいませんでした。
つまり聖職者と市井の人々はコミュニケーションをとることが出来なかったのです。
その姿はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』などにも描かれています。

ラテン語を読むことも話すことも出来ない人々に、
聖書の物語やイエスの教えを伝えるために、
「最後の審判」や「キリストの昇天」など、
観るだけでメッセージが伝わるようなモチーフが描かれました。

そうしたロマネスクの世界から民衆の中にカトリック教会が歩み寄るきっかけとなったのが、
アッシジのフランチェスコでした。

カトリック教会の言語の中に「俗語(イタリア語やフランス語など)」が登場するのは、
アッシジのフランチェスコの宗教詩『兄弟なる太陽の賛歌』が最初である、と考えられています。
あのイタリアの世界遺産『アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と関連遺産群』の
フランチェスコが書いたものです。
ラテン語で統一されていたヨーロッパ文化が、
各国の母国語・文化に分かれてゆく転換点でもあります。

これはアッシジのフランチェスコが興した、フランチェスコ修道会の考え方に通じています。
フランチェスコ修道会は、これまでの修道士の基本的なスタイルであった
「定住・農耕」を中心にすえた集団生活を否定し、
修道士たちに非定住や職人としての労働を勧め、封建社会からの自立を促しました。

当然、カトリック教会からは厳しい批判を受けるのですが、
アッシジのフランチェスコの革新的な宗教運動は単独で興ったものではなく、
同時代の様々な宗教運動と結びついています。

中でもカルカッソンヌを中心に興ったカタリ派(アルビジョワ派)との結びつきは強く、
アッシジのフランチェスコの『兄弟なる太陽の賛歌』へのプロヴァンス文化の影響を
指摘する研究者もいます。

このカタリ派(アルビジョワ派)に関係する世界遺産が、
2010年新規登録の『司教座都市アルビ』(フランス共和国)です。

アルビはローマ教皇イノケンティウス3世とフランス王ルイ8世の主導する
アルビジョワ十字軍によって徹底的に弾圧されてしまいますが、
フランチェスコ修道会は、修道スタイルがカトリック教会と異なるとはいえ、
カトリック信仰を擁護するものであったこともあり、
批判が弾圧へとエスカレートすることなく、現在も続いています。

カタリ派(アルビジョワ派)の詩人が好んだ愛の歌(chansons d’amour や canso)が、
イタリアに渡ってカンツォーネ(canzone)になった話や、
アッシジのフランチェスコ自身が吟遊詩人のようにフランス語で歌ったこと、
彼の母がプロヴァンス出身であったことなど、
話を広げてゆくと限がないので、この辺にて。

今、窓から皇居脇の桜を見下ろすと、
夜桜が、暗い夜空に向かって自ら微かに発光しているようにも見え、
晴天なのにどこかぼんやりとした春の淡い青空の下で見る
活き活きと自信に満ちた桜とは別の、妖艶な美しさがあります。

行き暮れて 木の下陰を 宿とせば
       花や今宵の 主ならまし
          薩摩守忠度

『平家物語』に出てくる大好きな一首。
僕のイメージの中では、薩摩守忠度が枕としたのは、夜の桜の木なのです。

実際は何の木だったんだろう。
アーモンドだったりして。


『ヴェズレーの教会と丘』のサント・マドレーヌ教会のタンパン