■ 研究員ブログ56 ■ Je suis Charlie あるいは 世界はひとつじゃない
日本では新年の雰囲気もまだまだ残っていた1月7日。
パリでは恐ろしい事件が起こっていました。
テロリストによるフランスのメディア「シャルリ・エブド」の襲撃です。
物事を暴力で解決しようとするテロリストのやり方にぞっとします。
彼らの行動に何の正当性もありません。
世界中の人々が掲げた「Je suis Charlie(私はシャルリ)」というスローガンは、
「表現と精神の自由を守る」という、世界の意思の表れです。
これは、世界中の人々が「シャルリ・エブド社を支持している」というのとは違います。
確かに、フランスには風刺画で政治や社会、宗教を風刺してきた長い伝統があります。
そしてシャルリ・エブド社は表現の自由を行使する権利があります。
しかし「ペンは剣よりも強し」というのであれば、
ペンを使う人は、その使い方に慎重でなければなりません。
そのペンは誰かを傷つけうるものだと意識していなければなりません。
一方で、シャルリ・エブド社の風刺画は、とても「フランス的」だと思います。
フランスに住んでいた頃、フランスの人気コメディアンが、
腕のない、体の不自由な人を笑いの対象にしているコントを見たことがあります。
日本では考えられないコントですが、視点を変えてみると、
フランスでは、体の不自由な人もそうでない人も、
みんな同じ「人間」として扱っているとも言えます。
体の不自由な人は「僕らと違う特別な人」なんかじゃない、同じ人間なんだ、と。
実際、日本にいる時よりもよく、体の不自由な人を街中で見かけました。
それが彼らの平等の考え方なのです。
やなせたかしさん作詞の童謡「手のひらを太陽に」の世界です。
シャルリ・エブド社の編集長は事件前、
偶像崇拝を禁じているイスラム教のムハンマドの風刺を続ける理由として、
「(すべての宗教を風刺しており)ムハンマドだけを特別扱いはしない」
とインタヴューに答えていました。
それが彼の考える公平性なのでしょう。
しかし、それはあくまでフランス社会、
もっと言えばシャルリ・エブド社の中でのみ通用する論理です。
フランスに住んでいると、
彼らが皮肉やアイロニカルな笑いが好きなことをよく感じます。
風刺画はそうした文化や社会性の上で成り立つのです。
シャルリ・エブド社の風刺画が、フランス国内だけでなく、
文化や歴史、宗教が全く異なる世界の人々の目にも触れる時代であるということを
彼らはもっと意識しなければなりません。
彼らのいう「表現の自由」は、フランスの視点・文化に根ざしたものにすぎません。
それが世界のどこでも、誰に対しても同じように通用し理解してもらえると考えるのは、
あまりにも傲慢です。
フランス人もドイツ人もアメリカ人も、
イスラム教徒もキリスト教徒も仏教徒も、僕たち日本人も、
「表現の自由」を全く同じに解釈して理解してはいないのです。
これは世界遺産と関係のない話のようですが、そうではありません。
世界遺産の考え方は欧米の文化・思想を背景にしています。
世界遺産条約がフランス語と英語で書かれている意味を
考える必要があります。
英語の「snow」とフランス語の「neige」と日本語の「雪」が異なるように、
「真正性」や「完全性」などの世界遺産の概念も、
文化的背景や歴史、気候風土が異なれば、解釈が異なってくるはずのものです。
さらに言うと、東京の「雪」と北海道の「雪」だって違うはずなのですから、
世界中で共通する「概念」なんてあり得るのでしょうか。
世界中の9割以上の国と地域が参加する世界遺産条約には、
そうした難しさがあるということを、
世界遺産に関わる人々、特に欧米の人々は強く意識しなければなりません。
国際条約というのはどれもそうでしょうが。
僕たち日本人は欧米からさまざまな概念を学び、
それこそが「世界」であると勘違いしがちです。
イスラムの視点から世界を見たらどうなるのか、
マオリの視点から世界を見たらどうなるのか。
世界には無限の視点があります。
世界遺産の見え方も、がらりと変わってくるかもしれません。
そういう意味で、僕たち日本人は小学校で英語をやる前に、
日本語をもっともっと学んだ方がよいと思います。
欧米の真似っこではない世界を作り上げるためにはね。
長くなりましたが、今回のテロ事件の一番の被害者が
普通のイスラム教徒の人々とならないように願っています。
【NPO法人 世界遺産アカデミー 研究員 宮澤 光】