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【特別寄稿】戦後70年・日本と世界遺産<下> 森忠彦

森 忠彦(毎日新聞編集委員、世界遺産検定文部科学大臣賞審査員)

 1993年。日本としては第1号となる4つの世界遺産(白神山地、屋久島の自然遺産と、姫路城、法隆寺地域の仏教建造物群の文化遺産)が同時に誕生した。世界遺産条約の採択からすれば19年後のことである。
 しかし、その後は、それまでの出遅れを挽回するかのように、世界遺産への登録を推進した。90年代に「古都京都の文化財」「白川郷・五箇山の合掌造り集落」「原爆ドーム」「厳島神社」「古都奈良の文化財」「日光の社寺」、そして2000年のミレニアムには「琉球王国のグスク及び関連遺産群」という、知名度が高い遺跡や名所が相次いで登録された。2000年は沖縄でG8先進国サミットが開かれた年でもあり、沖縄はお祝い続きの年となった。
 このころまでの登録地の決定は政府主導だった。文化遺産だけでも複数の候補を世界遺産委員会へ推薦することができたため、準備が整ったものから登録が進んだ。唯一、問題があったのが96年の「原爆ドーム」。日本側の考えと、原爆を落とした米国の考えは当然異なり、米国側は事前に不満を日本側に伝えたようだが、日本としては純粋に人類の「負の遺産」としての価値を訴えた。最終的にも委員会でも採決まで持ち込まれることなく、登録が決まった。

 登録の一方で、日本がイニシアチブをとって進めた改革もある。その一つが94年に奈良で開いた専門家会議による「奈良文書」。これは世界遺産になるために求められる「真正性」の基準を見直すというものだ。西欧中心に作られた従来の基準は「建造された当時の様子がそのまま維持・保存されていること」が重視された。しかし、これは風化しにくい石の文化である欧州にはあてはまるものの、耐久性が弱い木や土の文化であるアジアやアフリカでは適応しにくい。当然、アジアなどには不満があった。そこで木や土でも同様に評価できるように「その文化・歴史の中で営まれてきた保存技術や修復方法であっても構わない」という基準に変わった。木造遺産が多い日本にとっては大きな追い風となった。
 さらにこの年の世界遺産委員会で採択された「グローバル・ストラテジー」は欧米に偏在している遺産リストの不均衡を見直そうというもので、その結果、登録数が少ない国や時代、遺産のタイプが優先されることになった。遅まきながら参加した日本にとっても有利な見直しで、数だけでなく、今年の「明治日本の産業革命遺産」につながるような、新しいタイプの遺産へと窓口を開くことになる。
 また98年には日本初開催の世界遺産委員会が京都で開かれた。議長は翌年からユネスコ事務局長(1999~2009年)を務めることになる松浦晃一郎氏。「この会議では新規登録数を増やすことだけでなく、登録後の保全状態をチェックしようということを始めた。つまり、産めよ増やせよの時代はもう終わったということ」
 この段階での登録は582件。中には登録後の管理状況が悪い事例も少なくなかった。

◆ 盛り上がる「わが遺産」
 日本で「世界遺産ブーム」と呼ばれるような人気が高まってきたのも、このころ。松浦氏が日本人初の事務局長就任のために永田町に挨拶に回ると、大物議員から選挙区などの名所を「ぜひ、世界遺産に」という陳情が相次ぐようになったという。
 松浦氏の思い出によると、「(当時の)小渕恵三総理のところに行くと『富岡製糸場を何とか』、中曽根康弘元総理は旧制静岡高校卒というもともあり、『ぜひとも、富士山を』と。中央よりも地方の方が熱心になって、ぜひわが町の宝物を世界遺産に、という動きが広がってきましたね」。
 自然遺産の知床(2005年)や当初は自然遺産を狙っていた富士山(2013年)は残っていたが、2000年に琉球のグスク群が登録されたことで、一般の国民としては知名度が高い文化遺産候補はほぼ完了したという印象があったのではないだろうか。そういう意味で04年の「紀伊山地の霊場と参詣道」は、高野山や吉野、熊野三山はともかくとして「参詣道」のような地味でかつ面積(行路)も長く、その大半はただの山道にしか映らないような場所が登録されたことの影響は大きかった。「文化的景観」という新しい概念が日本で初めて採用されたケースで、それまで国宝、重文のような狭い箱庭的なものが対象とされてきた日本の遺産にはない歴史的、宗教的な空間が新たに登録された。「これなら、わが町のお宝も」というムードが全国の自治体に広がっていった。
 この動きの輪を広げたのが06年秋に文化庁が行なった「暫定遺産リストの候補地募集」だった。バブル期以降、日本は各地で地方分権やふるさと創生、地方創生など、名前を変えた地方振興策が積極的に行われてきた。こういう「地方の時代」によって各地に眠る世界遺産候補が掘り起こされた面もある。この時に挙がったのは24件。のちに実際に世界遺産に登録、あるいは世界遺産委員会への推薦を得たものでは富士山、富岡製糸場、明治維新関連遺跡(萩など)、九州・山口の産業遺産群、長崎のキリスト教遺産、沖ノ島の関連遺産が入っている。

◆ 始まった政治介入
 翌07年の登録を目指したのが「石見銀山」。この登録が図らずも、その後の世界遺産の決定過程に少なからざる影響を与えるきっかけとなる。7月の遺産委員会を前にした専門機関「イコモス」による石見銀山の評価は4段階中3番目の「登録延期」だった。2番目の「情報照会」よりも一段低く、コンセプトそのものが不十分という判断だ。通常なら、委員会で登録となるようなことはなかった。
 しかし、日本政府は「登録延期」が出た5月からわずか2か月でイコモスが評価対象としなかった新コンセプトを探し出した。「環境に優しいエコな運営を行ってきた銀山」という新真実は、地球環境という時代の流行ともマッチしていた。7月の委員会ではその新事実を持ってロビイングを重ねた。その成果が奏功して、委員会では逆転、登録が決まった。地元は大いに沸いた。当時、ユネスコ大使として前線にたった近藤誠一氏は「あくまでも新しいコンセプトを説明したわけで、政治力で無理に通すよう要請したわけではなかった。しかし、どこか複雑な気持ちも残った」と語る。
 ユネスコも他の国際機関と同様、基本的には各国の国益を反映した外交活動が行われる。世界遺産委員会も決して例外ではない。しかし、それまでは専門家集団の「イコモス」の判断は絶対的なもので、その後の外交活動で結果が変わるようなことはなかった。それだけに日本政府への反応は厳しかったという。
 「あの優秀な日本が、というのがイコモス側の不満でした。一方、加盟国の方では、イコモスの決定もその後の政治的な動きで変えられる、という前例となってしまった」と松浦氏。それ以来、5月に出されたイコモスの勧告を7月の委員会までの間に何とか格上げさせ、登録に持ち込もうという各国の動きが顕著になったという。
 それもあって、日本は翌08年に「平泉」に対してイコモスが「登録延期」を出した際は、無理はしなかった。近藤氏によると、一段上の「情報照会」に格上げすることも考えられたが、ここはそもそものコンセプトを見直して、再起を図ろうということになった。松浦氏も「平泉は無理するな。作戦を練り直せばいいんだからということになった。それほど石見の教訓は大きかった」。2年続けて日本の「ロビイング」がごり押ししたように映ってしまえば、さらに日本への風当たりは大きなものになっていただろう。
 2012年。条約の採択40周年を記念した会合が京都で開かれた。主催した松浦氏は「専門家機関の意見は尊重すべき、ということを再確認したほど」と苦笑する。
 2013年に文化遺産として登録が決まった富士山の時も、構成資産の一つである「三保松原」についてはイコモスが「距離が離れている」として除外を求めてきたが、これも委員会では逆転登録を果たした。当時、文化庁長官だった近藤氏は「ロビイングではなく、三保松原が本来持つ価値を改めて正面から説明することができた成果」と語る。もちろん外交活動であることには違いはない。
 これらの逆転劇は、日本では新聞、テレビともに「外交的成果」として高く評価された。新聞も登録当日は1面から最終面まで大展開で、歓迎ムード一色。世界遺産の本来のあり方を問うような視点は、ほとんど語られることがなかった。

◆ 極まった外交問題化
 世界的な人気の高まりの中で、世界遺産の決定に政治が介入するという傾向は、その後も続いている。2010年から13年までユネスコ大使を務めた木曽功氏は「どこの国も自国の遺産を登録させようと気持ちが強い。代表団には本国からすごいプレッシャーがかかるし、我々は外交官なので決定には従わざるをえない。いまや『(4段階のうちの)1つぐらいのグレードアップは許容範囲』という感覚になっている」という。つまり、イコモスが「情報照会」としたところは、ロビイングによって登録へという流れができつつあるというのだ。
 こうした大なり小なりの政治介入が大きな外交問題へと発展してしまったのが、今年の「明治日本の産業革命遺産」を巡る、韓国からの強い政治圧力だった。日本側が対象期間を「幕末から(大英博覧会が行われた)1910年」とし、その後の時代を無視したため、植民地下の徴用工問題を指摘してきた。内閣官房参与として今回の委員会にも参加した木曽氏は「世界遺産としての価値があるかどうかを決める会議に、まったく別の外交問題が絡んできた。世界遺産が有名になり、外交の道具としても有効になったことで、委員会が外交交渉の舞台となってしまった。本来の世界遺産条約の趣旨からかなり離れて行ってしまっている」と現状を語る。
 今回の産業遺産は選出方法についての異論も少なくない。従来、文化遺産は文化庁、自然遺産は環境庁が管轄してきたが、今回の遺産には現役の稼働施設が含まれていたことから、文化庁が難色を示した。そこで内閣官房を中心としたチームによってまとめられ、最終的には官房長官の決定となった。当初、予定されていた「長崎のキリスト教群」を飛び越した形になったため、少なからず不満も出た。欧州ではすでに産業遺産が次々と登録されている状況からすれば日本の例が出てもおかしくはないし、14年には同じく明治の産業遺産である「富岡製糸場と絹産業遺産群」が登録されたばかりだ。この際は海外から異論が付くようなことはなかった。しかし、今回は「松下村塾から現在稼働している施設」までを一つのストーリーとしてくくる論法がかなり強引で、その割に限定的に映った人も多かったのではないだろうか。安倍晋三首相の地元・山口が過度に強調されているという声もある。実際、首相の意向が審議会の決定に裏で働いたと証言も聞いた。また地理的に広範囲に及ぶ「シリアル・ノミネーション(連続性のある遺産)」という手法も、日本ではまだなじみが薄いため、ピンとこなかった人もいるだろう。いずれにしろ、90年代までとはかなり異なる背景、意義付けで世界遺産が選ばれるような時代になっていることは、間違いない。

◆ 今後の遺産は 
 今後の世界遺産はどうなってゆくのか。日本は17年の候補として「宗像・沖ノ島と関連遺跡群」の推薦を決定した。古代から東アジアの交流の中継地として重要な役割を果たしてきた祭祀遺跡が残る。朝鮮半島経由で入ってきた文物は、ある意味で日韓友好の材料ともなりうるだろう。現在、「暫定リスト」には10件が残っているが、今後の選び方について近藤氏は「できるだけ外交問題にならないような、イコモスから高い評価が得られるような完成度が高いものから優先的にしてゆくべき」と語る。今年のような苦い事例は再び繰り返すべきではないというのが、関係者の一致した見解だ。産業遺産の教訓は小さくない。
 それにしても、いつまで世界遺産は増え続けるのか。今年の委員会までで合計1031件となった。現在、条約の加盟国は191国で、まだ遺産が一つもない国もあり、これらの国から推薦があれば「グローバル・ストラテジー」の一環として優先的に登録が進むだろう。木曽氏によると、現在、イコモスが年間で調査できるのはせいぜい50件程度だという。各国の希望が増えたため、ユネスコは14年から各国の推薦制限を文化遺産1、自然遺産1を上限とした。例外的な「抜け道」はあるが、基本、文化遺産は毎年1件しか推薦できない。この新ルールがさらに、狭き門に対する競争を過熱化させている。
 数年前まで、日本の世界遺産登録は数年おき、というのが普通だったが、富士山の13年以降は毎年続いている。「もはや、今年はなしで、というわけにはいかない国内の状況がある」と木曽氏。各地から続く「おらが町にも遺産を」の要望に応え続けるにはどうすればいいのか。「シリアルノミネーションをフル活用すれば、数多くの遺産が登録できる。枠が少なくなった時代の知恵として、数で攻める作戦はありうる。彦根城なども単独は難しいので、姫路城を拡大して他の現存天守の城を全部まとめて『江戸の天守』とする。そんな知恵もあるかも。もはや、当初の世界遺産の趣旨とはかなり変わってきてはいるが」と苦笑する。

 観光誘致の救世主としての役割ばかりが目立つ中、もう一度原点に戻るべき、という声もある。筑波大学に日本の大学としては初めて世界遺産の専攻コース(大学院)を設けた名誉教授の日高健一郎氏は「おらが町の世界遺産、ばかりが強調され、登録されることばかりが目的になってしまっている。大切なのは登録したものをどう守ってゆくか。その現状をどう監視してゆくかだ。世界遺産制度の理念や原点に戻る時期になっているのでは」と語る。
 そもそも、世界遺産になるということは、どういうことなのか。「世界ブランド」に弱い日本人は「日本の貴重なお宝を世界が認めてくれた」という浮かれた意識になりがちだが、本来は「世界の宝として世界に差し出す」くらいにとらえるべき、と日高氏は提案する。一方で、我々はきちんと海外の、世界の宝を現状を自分たちのものとして見ているのだろうか。有名な先進国の観光地以外の遺産に、日本人がどれほど関心を持っているか。そこもしっかりと考えなければならない課題だろう。
 中東シリアでは現在、危機遺産に指定された文化遺産がなんの対策もなされぬまま、過激派組織「IS」の手によって破壊され、政府の保護もない中で、多くの難民が国外へと流出している。彼らが目指す先は、世界で最も多くの遺産を有する豊かな西欧のドイツやフランス、英国などというのも、どこか皮肉に映る。ユネスコ憲章にある「世界の人々の差異」は70年たった今もなお、薄らいではいないのか。(終わり)

● 日本とユネスコ・世界遺産条約の関わり(92~2015年まで)
  92年 日本が世界遺産条約に加盟
      世界遺産委「文化的景観」採択
  93年 日本で最初の世界遺産(「白神山地」「屋久島」「姫路城」
      「法隆寺地域の仏教建造物群」)が登録
  94年 「古都京都の文化財」登録
      世界遺産委「グローバル・ストラテジー」採択
      世界遺産関連会議で「奈良文書」採択
  95年 「白川郷・五箇山の合掌造り集落」登録
  96年 「原爆ドーム」「厳島神社」登録
  98年 「古都奈良の文化財」登録
      京都で世界遺産委員会開催
  99年 「日光の社寺」登録
2000年 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」群登録
  03年 世界無形文化遺産条約締結
  04年 「紀伊山地の霊場と参詣道」登録
  05年 「知床」登録
  07年 「石見銀山遺跡とその文化的景観」登録
  08年 平泉、イコモスから「登録延期」
  11年 「平泉」「小笠原諸島」登録
  12年 40周年会議で「京都ビジョン」宣言
  13年 「富士山」登録
  14年 「富岡製糸場と絹産業遺産群」登録
  15年 「明治日本の産業革命遺産」登録

■ 取材にご協力いただいた方たち
・服部英二さん     元ユネスコ事務局長顧問、地球倫理・システム学会会長
・松浦晃一郎さん    前ユネスコ事務局長、元駐仏大使、外務省OB
・愛知和男さん     元環境庁長官、NPO法人「世界遺産アカデミー」会長
・遠山敦子さん     元文部科学大臣、文部省OB
・近藤誠一さん     元文化庁長官、元ユネスコ大使
・木曽功さん      元ユネスコ大使、内閣官房参与、文部省OB
・日高健一郎さん    筑波大学名誉教授(世界遺産学)
・吉田正人さん     筑波大学教授(世界遺産学)、元日本自然保護協会研究員

参考文献
松浦晃一郎著「世界遺産 ユネスコ事務局長は訴える」(講談社)
近藤誠一著「FUJISAN 世界遺産への道」(毎日新聞社)
木曽功著「世界遺産ビジネス」(小学館新書)

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