■ 研究員ブログ50 ■ バチカンで逢いましょう、ぜひとも逢いましょう。
突然ですが、僕はイタリアが好きです。
あの雑然として適当で能天気なイタリアが大好きなのです。
これっていつからなのかな。
小学生の時にアメリカへ転校していった友人へ贈った寄せ書きに、
「僕はいつかイタリアに住みたい!」という、
贈る言葉でもなんでもない意思表示を書いたことを覚えています。
先日、久しぶりにそんなイタリアを感じることができました。
イタリアのローマとヴァティカンを舞台とした映画
『バチカンで逢いましょう』を見せていただく機会があり、
そのなかのイタリアが、まさに僕の好きなイタリアだったのです。
映画は、カナダのオンタリオの美しく雄大な自然から始まります。
「自然」の美しさは空間の広がりであり、息を呑むものがあります。
それが一転して都市ローマに舞台が移ると、
雑然として騒音が溢れ、音が氾濫する。
画面に隙間なんてありません。
車やスクーター、市民や観光客、物売りの間には、
サン・タンジェロ城や城壁、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂など
ローマ遺跡や建造物がぎゅっと詰まっています。
息苦しいほどに。
その息苦しい画面を見ていると、
あぁイタリアに行きたい! と思ってしまうのです。
なぜなのでしょうね。
ローマよりも美しい街はいくらでもあると思います。
心が落ち着く自然も、それこそ数え切れないほどあります。
それでもローマに心惹かれるのです。
これは世界遺産としてのローマにも関係していると思います。
世界遺産の価値は「顕著な普遍的価値」です。
「誰もが素晴らしいと感じる価値」の中でも「特に秀でたもの」に
「世界遺産」という冠が与えられます。
つまり、「顕著な」という点においては、
「顕著な普遍的価値」というのは、
「そこにしかない個性」と言い換えることができます。
世界遺産は世界の多様性を守る活動だからです。
どこにでもあるものではなく、ローマにしかないからこそ、
ローマは『ローマの歴史地区』として世界遺産登録されました。
あんな大きな規模の都市で、
古代ローマ人が行き来した石畳が、轍が、いまでも目の前にあって、
いまでも人々が使っている、なんていうことはまずありません。
世界遺産というのは「守る」というイメージが強すぎて、
「世界遺産になると生活が不便になる」という反対意見も
時どき耳にします。
しかし、何度も書いていることですが、
世界遺産というのは、実際に人々が住んで使ってこそ
価値があるのだと僕は思っています。
博物館的に残されているのでは魅力が減じてしまいます。
……もちろん、そうして残すことには大きな意義があるのですが。
イタリアの各都市やローマの人々は、
経済的な理由から遺産保護がうまくいっていない側面はありますが、
あっけらかんと世界遺産の中で人生を楽しんでいる気がします。
世界遺産になる前からずっと遺跡と暮らしてきてるんだ、って顔して。
これは世界遺産のあり方の、ひとつの好例です。
遺産保護ありきで「世界遺産になると生活が不便になる」のではなく、
世界遺産で生活することを楽しむ。
それが世界遺産としての価値や魅力を高め、
遺産を守ることにつながる。
こうした発想の転換が、
特に都市部の世界遺産には必要なのではないでしょうか。
「我々イタリア人は愛に弱い。」
これは映画の中のジャンカルロ・ジャンニーニの台詞ですが、
この映画は、この台詞に集約されています。
もしかしたら、世界遺産も。
僕は、ローマで最も美しいのは夜明けだと、思っています。
フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』でも描かれていましたが、
『バチカンで逢いましょう』の夜明けのシーンもどれも素敵でした。
トミー・ヴィガント監督、あなたローマの魅力をわかってますね!
深夜3時すぎ。
橙の街頭に照らされるローマの街に車は少ない。
友人の車ではセンチメンタルなピアノソロが、大きめな音量でかかっている。
後部座席に沈むように座って、車窓から見える、街路樹に見え隠れする満月を眺めていると、
はじめあんなに長そうに思えたイタリア旅行もあと少しで終わってしまうんだな、と
寂しくなってきた。
楽しいということは切ないということだ。