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【特別寄稿】戦後70年・日本と世界遺産<上> 森忠彦

森 忠彦(毎日新聞編集委員、世界遺産検定文部科学大臣賞審査員)

 今年夏、「明治日本の産業革命遺産」がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。日本にとっては19番目の世界遺産となった。今や国民的な人気となり、テレビで関連番組が放送されない日はないほどの存在になった世界遺産だが、その歴史を振り返ると、経済発展の中で自然や文化の保護、あるいは観光立国政策に揺れた戦後70年の一面が映し出される。「日本と世界遺産」というテーマで考えてみたい。

◆ ユネスコ誕生
 日本と世界遺産とのかかわりで、今となっては関係者の誰もが首をひねる「最大のナゾ」がある。世界遺産条約が採択されたのは1972年(発効は75年)だが、日本が加盟したのは92年。125番目の加盟国で、先進国では最後だった。「なぜ、20年もの間、日本は加盟しなかったのか」という、素朴なナゾである。
 世界遺産の母体となるユネスコ条約が採択されたのは第二次世界大戦終結から間もない、1945年11月のことだった。この年10月に発足した国際連合の専門機関の一つだが、最初の会合がロンドンであり、翌年11月の発効後は本部がパリに置かれたことが意味するように、当初から西欧諸国中心の組織だったと言える。ユネスコ憲章前文の冒頭にはこうある。
 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界中の人々の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、世界中の人々の差異があまりに多くの戦争を引き起こした」
 まさに2つの大戦に疲弊し、その中で貴重な人材や文化、自然を失ってきた西欧諸国の強烈な反省と自戒を込めた誓いだった。教育と文化こそが、人類の共通理解のカギになるーーという思いからのスタートだった。
 日本がユネスコに加盟したのは51年。国連本体は56年だから、その5年も前のことだ。
 のちにユネスコ事務局長(1999~2009年)を務めることになる松浦晃一郎氏は言う。「ソ連や中国が拒否権を持つ安保理が中核にある国連本体と違って、ユネスコは日本を優しく受け入れてくれた。日本にとってもユネスコの趣旨は理解しやすかったはず」
 日本ユネスコ協会や日本ユネスコ委員会も間もなく発足。ユネスコは敗戦国・日本が国際社会に復帰した最初の場で、象徴のような存在だった。その後の教育、文化、科学分野の活動には一貫して積極的にかかわり、途中で米国が脱退(84~2003年)したことなどもあり、分担金でも最大の貢献を続けている。非軍事を基本とした戦後の日本にとって、最も理解、協力しやすい国連活動の場だったと言えるだろう。

 世界遺産につながる動きも始まった。54年にオランダ・ハーグで戦争や内戦、民族紛争から文化財を守るための指針「ハーグ条約(武力紛争の際の文化財の保護に関する条約)」が採択された。一方、60年にはエジプトがナイル川ヌビア地方で「アスワン・ハイ・ダム」の建設を開始。工事が進めば古代エジプトを代表する「アブ・シンベル神殿」などが水中に沈む。この救済キャンペーンが始まり、64年には神殿は高地に移築された。この年、イタリア・ベネチアでは文化財や遺跡の保存・修復に関する「ベネチア憲章」が採択され、その活動母体として翌年には専門機関の「ICOMOS(イコモス)」が設立した。世界遺産の事前調査を行い、勧告を出す機関として今ではおなじみになった。
 文化財や遺跡の保護の一方で、自然保護の関心も高まり始めた。文明発展の代償として世界各地で自然破壊や公害が進み、環境対策が人類の重要な課題となった。特に先進国は対応が早かった。日本でも71年には環境庁が誕生。世界的には48年に発足した「IUCN(国際自然保護連合)」(本部・スイス)を中心とした地球レベルの環境保全が動き始めた。72年にはスウェーデン・ストックホルムで「国連人間環境会議」が開かれた。開発優先で進んできた人類が初めて自然環境の保護・保全の重要性を宣言した。
 この年は世界の知識人が集まったローマ会議が「成長の限界」を報告した年でもある。第二次世界大戦後、復興と経済成長に突っ走ってきた欧米の先進国の勢いが緩やかになり、一方では発展の代償としていろいろなものを失い始めたことに気づき始めた転機の年だったのではないだろうか。
 こうした流れの中で、11月にパリで開かれた第17回ユネスコ総会では「世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)」が採択されることになる。この時の総会議長は日本人が初めて務めた。外務省OB(元駐仏大使など)だった萩原徹氏(故人)。戦前からの職業外交官だった人だ。日本人の手によって降ろされた木槌によって、世界遺産は誕生した。

◆ 空白の20年
 しかし、世界遺産条約の採択も、発効(75年)も、日本の新聞、テレビなどのメディアが報じたという記録は見当たらない。大半の日本人はそういう条約があることも知らないまま、長い時間が過ぎてしまう。なぜ、だったのか。
 「萩原さんが議長だったので、外務省の一人として条約の存在は知ってましたが、担当でもなかったし、私自身がしっかり勉強していなかったのも事実。国民的な関心もほとんどなかった。萩原さんも条約の重要性をどこまで分かっていたのか……」
 と松浦氏は振り返る。
 73年から94年までユネスコ本部に勤務した元事務局長顧問の服部英二氏=現地球倫理・システム学会会長=は「本部でもユネスコの活動に熱心な日本がなぜ入らないのか、と不思議がっていました。本部から日本に行くたびに勧誘はしていたはずですが、なぜか、乗ってこなかった。外務省の関心が薄かったようです。条約となると一字一句を検証する必要があり、それが手間だったのでしょう」と語る。
 日本は64年に「先進国クラブ」と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)に加盟。同年には東京五輪も開かれたが、まだまだ発展途上で、70年代のニクソンショックやオイルショックを経て、75年にフランス・ランブイエで始まった第1回先進国首脳会議で初めて先進国の仲間入りを果たした。松浦氏は「それまでは先進国入りが日本外交の最優先事項で、正直言って政府として文化や自然のことに注意を払う余裕がなかった」と述懐する。
 実際、条約締結には多くの国内法の改正などが必要になる。文化庁や環境庁との調整もあり、外務省にとっては世界遺産条約の優先順位はかなり低かったようだ。今のようにマスコミが報じたり、テレビ番組が流れるわけでもないため、世論の高まりもなければ、批判もない。外務省としては面倒な条約にわざわざ手に付けようという空気は全くと言っていいほど、なかったようだ。
 世界遺産条約の方は75年12月に20カ国の批准で発効し、78年には米国のイエローストン国立公園、エクアドルのガラパゴス諸島など12の世界遺産が初めて指定されてスタートした。このことも日本では報道されていない。筑波大教授(世界遺産専攻)の吉田正人氏によると、「日本では世界遺産条約の和訳もずっとなされないままでした」という。日本ではほとんど関心をもたれることもなく、20年近い空白の時間が過ぎてゆくことになる。

◆ 条約参加へ 
 日本で世界遺産加盟の前段とも呼べる状況が生まれてきたのは80年代後半にはいってからだ。主に自然保護分野からの働きかけだった。中心となったのは尾瀬の保護活動から生まれた日本自然保護協会。日本では戦前の1934年に最初の国立公園(瀬戸内海、雲仙、霧島)が誕生して以来、国立公園法(57年からは自然公園法)による公園整備が行われてきたが、日本の国立公園は景観保護に加えて観光開発管理の比重が強い。生態系を含めた自然保護という考えが本格的に広がるのは70年代以降からのことだ。
 85年は国連が定めた「国際森林年」だったにもかかわらず、秋田と青森に広がる白神山地一帯で計画された「青秋林道」の自然林伐採が大きな問題となり(90年に中止)、87年には知床で住民の反対運動が続く中、林野庁が原生林の伐採を強行したため、国の林野行政への批判が高まった。こうした動きを受け、林野庁も政策を転換した。
 「87年が一つの転機だった。林野庁もようやく、森林保護という考え方を取り入れるようになった」
 当時、自然保護協会の研究員だった吉田氏は語る。
 日本はまさにバブル景気のさ中。87年には「リゾート法」が施行され、新たな国土開発も進もうとしていた。ただ、その一方では、環境保護という考えが国民の間に広がり始めた時代でもあった。高度経済成長が公害を生んでもお構いなしだった60~70年代とは違った。白神や知床は90年に林野庁が設けた「森林生態系保護地域」という従来とは異なる枠組みで、保護されるようになった。
 この延長で「日本にも世界遺産を」という運動が生まれた。
 89年12月にカナダで開かれた世界遺産委員会に自然保護協会長だった沼田眞氏(故人)が日本人として初めて出席。90年6月10日、青秋林道の中止が正式に決まったことを受けて開かれた集会で、沼田会長が「日本も世界遺産条約の早期批准を」と呼びかけた。新聞の紙面にもようやく「世界遺産」の文字が登場した。当時の構想では白神山地や白保サンゴ礁やヤンバル地域を想定した琉球諸島(沖縄)が候補に挙がっていた。
 91年に入って、沼田会長らによる政府の説得が本格化した。自然遺産を担当する環境庁とは別に、文化遺産の所管となる文化庁の理解も必要だった。元文相の遠山敦子氏=現トヨタ財団理事長=は当時、文化庁次長。説明に行った吉田氏の記憶によると「世界文化遺産の価値と各国の状況を説明すると、即決でわかりました、ということだった」という。
 遠山氏は「詳しくは記憶していない」と苦笑しながらも、文化庁がそれまで文化遺産に熱心でなかった理由を説明する。「日本には昭和25年にできた世界に冠たる文化財保護法がある。国宝や重要文化財だけでなく、祭りや伝統芸能などの無形のものも。さらには天然記念物として動植物や地質・鉱物まで指定して保護管理している。すでに十分な保護体制があったので、わざわざ条約を持ち込む必要性は感じていなかったのでは」と語る。

◆ 政治も動き出した 
 吉田氏の記録によると、すでに国会では81年には社会党議員から「原爆ドームなどを世界遺産にしては」という質問も出たことがあったという。しかし、当時は冷戦の最中。自社対立の時代で、野党が「原爆ドーム」を出してきたことそのものが、政治的な色彩を帯びていた。自民党政権側にすれば米国との不要な対立を招くことにもなりかねない(これは96年の登録の際に現実のこととなるのだが)ものに積極的になるはずがない。また84年から米国が欧州主導のユネスコの運営手法に反発して脱退していたことへの配慮も考えられる(実際、米国は自然遺産が中心で、文化遺産の数は少ない。歴史が浅いという点はあるのだろうが、それにしても欧州諸国の熱心さからすれば、かなり距離を置いていると言えるだろう)。
 しかし、日本は円安、バブル経済を通して多くの国民が海外旅行を楽しむ時代になっていた。80年代後半までにはすでに西欧の主な観光地の遺跡が文化遺産となり、北南米でも自然遺産の登録が続く。日本人の中に徐々に海外で「世界遺産」を耳にする人も出てきていたのではないだろうか。また、冷戦構造が終結し、世界的に「対立から協調の時代へ」という空気が高まったことも影響した。平和な時代だからこそ「世界の共有の宝物」を考える余裕も生まれる。

 国会で政府側から前向きな発言が出たのは、91年2月。第二次海部改造内閣だった(90年12月発足)。当時の外相は中山太郎氏(故人)、環境庁長官は愛知和男氏=現NPO法人世界遺産アカデミー会長。野党からの質問に対して2人とも前向きな発言をした。
 愛知氏によると「世界遺産の存在を知ったのは長官になってから。役人から説明を受けて、『へえ、そんなものがあるのか』と。ちょうど地球環境が問題になりだしたころで、そうした時代の流れがあったのかも。在任中に自然遺産の候補地となっていた屋久島、白神山地、知床には視察に行った。恥かしながら、白神なんて地名はそれまで聞いたこともなかった」と語る。
 記録によると、外務、環境、文化などの関係省庁による最初の連絡会議が開かれたのもこの2月。すでに翌92年6月上旬にはブラジルのリオデジャネイロでストックホルムの「人間環境宣言」から20年後となる国連環境開発会議(地球サミット)が開かれ、日本も積極的にかかわることが決まっており、世界的な環境保護の高まりで、日本も条約をこれ以上無視するわけにはいかなくなったようだ。
 日本が世界遺産条約の受諾書をユネスコに寄託したのは、「地球サミット」が終わって間もない6月30日のこと。条約採択から実に20年、先進国では最も遅い125番目だった。
 そして93年には日本第1号として「白神山地」「屋久島」の自然遺産と「姫路城」「法隆寺地域の仏教建造物群」の文化遺産が登録されることになる。
 「遅かったけど、まあ、too lateではなかった」。松浦氏は苦笑する。(つづく)

●日本とユネスコ・世界遺産条約の関わり(45~93年まで)

1945年 第二次世界大戦が終結
      ユネスコ憲章採択
  46年 ユネスコ発足
  48年 IUCN設立
  51年 日本がユネスコ加盟
  54年 ハーグ条約締結
  60年 エジプトでヌビア遺跡の救済運動開始
  64年 ベネチア条約締結
  65年 イコモス設立
  71年 環境庁発足
  72年 国連の人間環境会議
      世界遺産条約締結
      ローマ会議が「成長の限界」発表
  78年 最初の世界遺産(12カ所)登録
  84年 米国がユネスコ脱退
  85年 白神山地を巡る問題が本格化
  87年 知床で森林伐採問題が本格化
  91年 白神山地の青秋林道が中止に
  92年 国連「地球サミット」
      日本が世界遺産条約に加盟
  93年 日本で最初の世界遺産が登録

【特別寄稿】戦後70年・日本と世界遺産<下>につづく