■ 研究員ブログ93 ■ 『スポットライト 世紀のスクープ』と長崎のキリスト教関連遺産
仕事に向かうため、家を出て朝陽を浴びると、
無意識のうちに太陽に向かって挨拶をしています。
もちろん深々と頭を下げるのではなく、
口の中でもごもごと挨拶しているだけですが。
我ながら変な習慣と思いつつも、
なんとなく続けてしまっています。
これは太陽信仰とかいったアレではなく、
純粋に朝陽が気持ちがよいから、ということなのだと思います。
もしかすると、太陽に対して畏敬の念を抱いているのかもしれません。
信仰とは何だろうと考えることがあります。
古くより人間は自然の中で暮らし、
水や植物などのほか、木材などの生活資源を自然から得ていました。
一方で、多くの人智を超える出来事が自然の中にはあって、
それらを何とか理解しようとして、
神々や精霊などに答えを求めました。
自然に対する畏怖や崇拝が、プリミティヴな信仰を生み出したのです。
はじめは個々人に内在する行為だったはずです。
それが共同体の内部で共有され、体系化され、
やがて宗教として確立していきました。
そうなると、個人の内面的な行為であった信仰が、
個人の外部にまで拡大し、個人で好きにしてよい問題ではなくなってきます。
「大宗教でも、信仰は個人の内面の問題だ」と言われるかもしれませんが、
個人の内面の信仰を疑われ、否定され、矯正される、ということが、
長い歴史の中では繰り返されてきました。
もちろん、「信仰」とは個人の深い本質に内在するもので、
否定されても疑われても揺らぐものではない、というのも解ります。
ただ、そこまで強い「信仰」はどれほどあるものだろう、とも思うのです。
信仰とは何なのでしょう。
今日から公開される映画『スポットライト 世紀のスクープ』を
観せていただく機会がありました。
あの、アカデミー作品賞を獲った作品です。
アカデミー賞よりもずっと前に観たのですが、
とても興味深く、いろいろなことを考えるよい映画でした。
観ながら考えたことのひとつが、信仰とは何か、ということでした。
というのも、この映画は、
カトリックの神父による児童性的虐待をスクープした
アメリカのボストン・グローブ紙の実話を映画化したものだったからです。
カトリックの神父による児童性的虐待は、
数人ではなく全世界で何千人もの神父が行っており、
ヴァティカンを頂点とするカトリック教会が
組織的にそれを隠蔽していたという疑惑により
世界的な大問題となりました。
罪を犯した神父たちが付け込んだのは、
子供たちの信仰心でした。
カトリックの人々にとって、神父は神の言葉を伝える窓口で、
神と信者を繋ぐ存在だともいえます。
子供であればあるほど、神父の存在は大きく、
信仰が大きいほど、神父は絶対的であったはずです。
罪を犯した神父たちに「信仰」がなかった、
なんていうことはないと思います。
キリスト教を深く信仰しながら、罪を犯した。
大宗教となったキリスト教の教義で、
神父は女性との関係を持てない、ということも原因のひとつでしょう。
体系化され、個人の信仰をそこに当てはめなければならないという点に、
宗教の問題点があるように僕は感じます。
信仰にルールは必要なのでしょうか。
無茶なことを言っているのはわかっていますが。
一方で、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を調べていると、
「信仰の強さ」というものを感じます。
強い信仰があるからこそ「隠れキリシタン」を続けてこられたし、
現在も「カクレキリシタン」として受け継いでいられるのです。
彼らは江戸時代、何百年も司祭などの指導を受けることなく、
信仰を続けてきました。
それうした環境が、
信仰を個々人の中に強く内在させることになったのだと思います。
キリスト教の体制から関与されることなく、
自己の内面を見つめてこられたというか。
僕は宗教を否定する気は全くありません。
むしろ、宗教というのは絶対に人々にとって必要だと思っています。
それでも、信仰とは何か、信仰の形とは、と考えてしまうのです。
全然頭がまとまっていないので、
お叱りを受けそうな内容になってしまいましたが。
大学院生の頃、札幌にあるキタラという素晴らしいホールで、
バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏する
モーツァルトのレクイエムを聴いて、
本当に涙が出てきたことがありました。
あれは美しい音楽への信仰心からだな、きっと。
……別に信仰はしていないか。
信仰って何なのでしょうね。